【第十九話.亡失】

 依央が死んでいる。

 新校舎四階、理科室の木のタイルで出来た床の上で。


「依央……?」


 どうしてここに立っているのか思い出せないが、千紗はその傍で立っている。


 確か、理由は特になかったはずだ。

 灯里に言われて――それも何を言われたのか思い出せないが――、いつもの屋上から新校舎に向かって。


 それで……?


「どして、あんた……」


 どうして依央が、死んでいるというのだろう。


「依央、依央ー!」


 千紗は声を上げて駆け寄る。

 まるで親友がそうなったみたいに――本当は生きているうちに『そう』なりたかったけれど――、ショックを受けて。


「なんでっ、あんたなんでっ!」


 その子は、千紗の目の前で、薄ら目を開け涙を流して、息絶えていた。


 なんで。

『なんで』だなんて、まるで自分の命を奪った相手にいう言葉じゃないかもしれないけれど。

 千紗は、膝から崩れ落ちた。


「なんでよぉ……依央ぉ……」


 千紗には、ショックだった。


「私、もう言えなくなっちゃったじゃない……」


 そりゃあ、クラスメイトが死んでいたら、誰だってショックだろうけれど。

 千紗には『それ以上の意味』があった。


「あんたに、言えなくなっちゃったじゃない」


 その時。


 後ろで、鼻歌が聞こえる。

 千紗は、振り返ってきっと睨む。


 ――朝倉先生だ。


 上機嫌に、折りたたみコンテナに何か薬剤のボトルを大量に詰めて、それを両手で持って理科準備室に入っていった。

 死体をすぐに片付けないのは、絶対的な『自信』の表れか。


「待ってください! 先生っ!」


 千紗は、急いでそちらに向かう。


「聞きたいことが、言いたいことが、いっぱいあるんですっ! 先生、せんせいっ!」


 が。


「朝倉先生っ!」


 ――ごんっ。


「ったた……」


 強打した額を押さえる。

 やはり千紗は理科準備室には入れないようだ。


 改めて、息を引き取った級友のもとへ向かう。


 長い黒髪は床の上で乱れている。

 薄い茶色の瞳は、零れた涙できらきらと光っている。

 投げ出された細いお人形さんのような手足。


 静かに横たわる顔は、思っていたよりもずっと幼く見えた。


「ごめんな、依央。ごめん」


 そして、自分の手で、彼女の頭に優しく触れる。

 千紗の知らない記憶が流れ込んできて、視界はいったん暗転した。


 ごめん。


 その声は何よりも大きく響いた。



「そこにいるの」


 千紗は依央の眼になり、彼女が見ていた景色を見ている。

 そのはずだ。


 にもかかわらず、視界は非常に暗い。


 体に、柔らかい生地の服を纏う感覚がある。

 長い髪は、しっとりと濡れている。


 目が慣れてきた。

 まず目に入ったのは、ベッドに置かれたくまのぬいぐるみだ。

 その向こうに、学習机。

 アイドルグループのカレンダー。

 アイドルグループのライブのポスター。


 ここはどうやら依央の部屋のようだ。

 常夜灯の下、オレンジ色の光が薄ぼんやりと部屋を照らす。

 依央はお風呂上がりで、ベッドの上で、膝を抱えている。


 時計を見て千紗は驚く。

 針は三時半を指している。

 にもかかわらず、依央は寝ようとしていない。


(怖いんだ。依央は、怯えていたんだ)


 一睡もしていないのだろうか、頭痛が、千紗にも伝わる。


「そこにいるんでしょ」


 何もない部屋の角に向かって、呼びかける。

 無論、依央の部屋になど、生前訪れたこともなければ、死後に覗きに行ったこともない。

 そもそも、学校から出られなくなって久しい。


 瞬きをする。


(あっ)


 千紗は声を上げる。

 目の前に、黒い、真っ暗な影がこちらを見ている。

 いや、『それ』に、目は確認できない。

 それなのに、見られていると感じる。


『……いお……』


 蠢くヒトが、ぼそりと、しかし確かに彼女の名前を呼んだ。


「私が許せない? 千紗」


(ふぇっ?)


 千紗は思わず頭の中で変な声を出してしまう。

 呼ばれた影が、『形を得る』。


 少し長いポニーテール。

 やせ型の高めの身長。

 常夜灯の下だから色は判別できないけれど、たぶん青であろう、ヘアピンにヘアゴム。


 鳴海千紗が、白石依央の前に顕現する。


『あんたのせいで、くるしいよ。バイ菌ちゃん』

「私が憎いんでしょ」

『憎いよ、バイ菌ちゃん』


 バイ菌ちゃんという言葉を聞くたびに、脳にわずかにノイズが走る。


(やっぱり、嫌だったんだね。バイ菌ちゃんって言われるの)


 影の『千紗』は、一歩、また一歩と近づく。


『苦しいよ、バイ菌ちゃん。喉が焼けるみたいに痛いの』


 ごぼっ、ごぼっと血を吐きながら接近する。


「私をどうしたいの」


 依央が『千紗』に聞く。

 影は両の手を伸ばして、依央に顔を近づけた。

 そして。


『同じ目に遭わせてあげるよ』

「んんっ」


 無理矢理に口づけをした。

 真っ黒な血を、口移しで流し込みながら。


「ん――っ!」


 頭の中で傍観する方の千紗にも、激しいノイズが走る。


『はい、これであんたも死んだね』

「う……。うううっ」


 依央はのたうち回った。


「お腹が、お腹が痛いっ!」


 傍観する千紗は、これは夢だと判断した。

 日中のストレスからくる、悪夢。

 だから、痛みは最小限で済んだ。


 けれど、現在進行形で夢を見ている依央は違う。

 千紗が生前受けたであろう苦しみを、自身が味わうことで反復してしまっている。


「ぎゃあああっ!」


 血を吐きながら、苦しむ依央。

 と、ここで部屋が明るくなる。


「依央ちゃん、大丈夫?」


 心配して、母親らしいおばさんが駆け込んできたのだ。


「いやだ、いやだ、千紗が、千紗がっ」


 うわ言の様に繰り返し、ベッドの上でじたばたと暴れる娘を、母親は全力で抑え込もうとする。


「死にたくない、私、死にたくないっ!」

「依央、依央ちゃんっ! 夢よ、怖い夢を見ているだけなのよっ」


 ――そんな様子を、依央の視界を借りて見る千紗。


 確かに、依央は自分を殺した。

 朝倉先生と共謀して。


 その所為で、自分は死んだし、家にも帰れない。

 その所為で、家族はバラバラになって、お母さんはアルコール依存症だ。


 依央は嫌いだ。

 大っ嫌いだ。


 でも。


 苦しんでいるのは、わかった。

 痛いほど。


 わかった。



 千紗は、死んだ依央の次の記憶を覗いてみることにした。

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