【第十八話.見ていることしか】

 コンクールの練習は順調だ。

 花音のソプラノのパートも、由依のアルトの低音も。

 カーストのトップも、下層も。


 クラスで一つのハーモニーとなって響き渡る様は、本当に綺麗だ。

 感無量、と言ってもいい。


 千紗がやってきたこと――例えば根への干渉とか――が着実にいい方向に向いて来ていて、それだけで彼女は報われたような気になるものだ。


(うんうん、良いことをした後は、気持ちいいなー!)


 お腹は減るけど、それはそれで『心地よい疲れ』に似ていて、悪くない。



 そうして、秋も深まり十一月も下旬。

 二学期の期末試験の、試験前週間が始まった。

 部活動は休止になり、みな、勉強の為足早に家路に着いた。


 つまらないことに、三時半にはクラスメイトが居なくなってしまう。


 いつものプールサイドに座って、足をパタパタ。


(ああ、もう)


 千紗は、退屈だった。


「あら。あたしが居るのに?」

「突然現れて突然消えちゃう人なんて、私知りませぇーん」

「これは心外。消えちゃうのは千紗ちゃんの方でしょ」

「へ?」


 意外な一言に、千紗はハッとして友達の瞳を見る。

 まっすぐ、自分のことを見ている。


「あたしはどこにも行っていないし、なんにもしてない。自己認識が緩くなってくると、みんなそうなっていくんよ」

「みんなって……そんなにたくさんの幽霊を知っているの?」

「あたしは、一人目だからね。朝倉先生が殺した生徒の」

「……ねえ」


 ここで、千紗は自然と湧き上がってきた疑問を灯里にぶつける。


「朝倉先生は、何人の生徒を殺してきたの……?」


だよ」


 開いた口が塞がらない。

 にわかには信じられない。


「に、にじゅ……え?」

「千紗ちゃんが二十一人目」


 そんなにたくさんの自分の生徒を殺してきたというのだろうか。

 というか、先生も先生でよくバレないな、というのが素直な感想だ。


 仇ながら感心せざるを得ない。


 でも、灯里が嘘をついているとはとても思えないし、そんなことをする意味もない。


「そ、それで……自己認識が緩くなるって、なあに?」

「ああ。それはねえ」


 その時だった。


「ん?」


 千紗の耳が異音を捉える。


「お、聞こえたんだ。耳がよくなってきてるね」


 またよくわからない含みを持った言い回しをする灯里のことは、置いておいて。

 確かに聞こえた。


 ガラスが割れるような音だ。


(誰かが学校に入ろうとしている……?)


 灯った火が紙を燃やしていくかのように、胸騒ぎが胸の奥で延焼していくのを感じる。


「灯里、私、ちょっと見てくる!」


 既に見えなくなった友人に別れを告げ、千紗は音のした方向に向かって駆けだした。



 校舎内は、当然真っ暗だ。

 常人にはどこの窓が割られたかなんて、わかりはしないだろう。


 でもどうしてか、気がした。

 西側階段を飛ぶように駆け下り、旧校舎一階・保健室の前に立った。


 ――かちゃり、かちゃり。


 誰かが、割れたガラスを踏んで、こちらに向かって歩いてきている。

 天井に懐中電灯らしい光が当たり、キラキラと彼女の目にも入る。

 千紗が前に立つドアを開けるまで、あと数秒といったところだろう。


(さあ、来るなら来なさい!)


 かちゃん。

 鍵が開いた。


 がらりと扉が開く。

 だがこの時、侵入者は懐中電灯を真正面に向けていた。


(うっ)


 だから、暗闇に慣れた目が、一瞬くらんだ。

 だから、千紗が見えない侵入者と。


 もろにしまった。


「しまっ――」


 殺された初日。

 サラリーマンに重なってしまった時と、同じことが起きた。



 ――ここは、どこだろう。


 真っ白な、カウンターキッチン。

 並んだ洗剤に調味料。


「いってきまあす!」


 玄関で聞こえるのは、愛する娘の声。

 あ。

 あの子ったら。


 カウンター越しにダイニングテーブルを覗くと、青い絵の描いたお弁当袋が置かれたままになっている。


 千紗は、瞬時に理解する。


 ――ここ、だ。


「千紗、千紗! んもう」


 ぱたぱたぱた。

 声の主は、スリッパで玄関まで走ると、バラの咲いた庭を駆け抜けた。


「こら、ちさー。お弁当、忘れてるわよーっ」


 呼ばれた『千紗』が振り返る。

 青い自転車、青いヘルメット。


 青が大好きな、自慢のあたしの娘。


「ありがと! いい匂い」

「もう、高校二年生にもなって」

「ごめんごめん。……いってきまーす。」


 ――これ、お母さんの記憶だ――。


「ふふ、行ってらっしゃい」


 優しい母は、またバラの香りに包まれて、玄関のドアを潜った。


 ……。


 記憶が飛ぶ。

 ちょうど、レコードの針がぷつっと途切れるみたいに。


 リビングのテーブルで、頭を抱える美雪。


「ただいまー」

「宗ちゃん……千紗が帰ってこないの」

「あれ、バイトじゃないの」

「夏休みにとっくにやめてるわよ!」


 ……。


 警視庁世田谷警察署で話す母親。

 担当警察官の根岸が応対している。


「……事件の可能性は」

「現時点では断定できません。ただし、未成年の長時間失踪です。慎重に見ます。もし、娘さんから連絡があった場合は、すぐにこちらへご連絡ください」

「……はい」

「それから……。最悪の想定も、心のどこかに置いておいてください。ただし、今は可能性を一つずつ消していく段階です」

「……」

「必ず、何らかの痕跡は残ります」


 ――朝倉先生が私を殺した痕跡も、残っているのかな。


 ……。


 薄暗い部屋。

 千紗に流れ込む記憶に、強いノイズが混じっている。


 この記憶は、知らない。


 ごくりと、茶色の飲み物を飲み干した。

 強烈なアルコールの匂いが意識を襲う。


 なんとか目を開くと、目の前には、白い紙。

 離婚届、と書いてある。


 半分にはもう美雪の個人情報が書き込まれている。


「ただいまー」

「……」

「ご飯の準備は出来たかい? ……また、こんなにウイスキー空けて。っておい、なんだこりゃ」

「見ればわかるでしょ。はいこれ。もう半分書いて」


 宗一郎は理解できていないようだ。


「何言ってるんだ、この非常事態に――」

「その非常事態に、いつも通り会社に行ったのは、どこの誰よっ!」

「そりゃあ、僕には仕事が」

「大事なのよね、実の娘の命よりもねっ! 早く書いてよ! 早くっ!」


 ――お母さん。


 ……。


『捜査中でありますから、もうしばらくお待ちを――』

「もういいわよっ、能無し刑事!」

『奥様、もう少し落ち着かれては』


 がんっ。


 お揃いで買ったリンゴのマークのスマホを、リビングの壁に投げつける。

 壁に小さな穴が空いた。


「千紗……千紗。待ってなさいよ、お母さんが必ず」


 ――お母さん。


 ……。


「何しに来たのよっ」

「そりゃあ、君が心配で」

「もう夫婦でもなんでもないんだよっ! 岐阜のお義母さんのとこにでも早く帰りなさいよっ」


 ――お母さん――。



 千紗の意識は、現実に戻ってきた。

 振り返るとバールを持った美雪が、セキュリティが発動して駆けつけた警備員に取り押さえられている。


「離してっ、離してよおっ!」

「こらっ、動くんじゃない!」

「千紗っ! 千紗ぁっ!」


「お母さん、もういいよ。もう――」


 揉み合う二人の前で、千紗は大好きな母に告げる。

 最後は涙で言葉にならなかったけれど。


「……! 聞こえた? 今聞こえたわっ! あたし確かに聞いたわっ! 千紗が、千紗がいるのよ!」

「いませんよ、あなたの娘はここにはいない!」


「いるの、いるのよーっ!」


 母が捕まるのも。

 母が離婚したのも。

 母が酒に溺れてしまっているのも。


 千紗はただ、見ていることしか出来なかった。

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