【第二十話.混線】
千紗は、依央の次の記憶に手を触れた。
◇
「白い羽根が 校庭に舞う」
まず耳に入るは、聞き覚えのあるフレーズ。
だと思ったら、合唱コンクールの練習中のようだ。
(日付はええと……)
千紗は視界の端に黒板に書かれたそれを見つける。
――美月が死ぬ少し前だ。
「誰もが笑う 午後の光」
二年一組のハーモニーは最高だ。
千紗は思う。
こんなにも美しい声で歌えるなんて。
「揃えた声は 澄み渡るのに」
と、依央が担当するソプラノパートの音を外す。
焦燥と恥ずかしさで、ほっぺたがちりちりするのを感じる。
「そこはね、いったん下がってから、『のに』で上がるんだよ」
麗華が優しく教授してくれる。
でも、依央は彼女を見ていない。
「すいません、ごめんなさい」
「あー、ううん? 謝らなくてもいいんだよ?」
楽譜で顔を隠す依央に、クラスのトップはやさしく声をかける。
依央は、そうっと、覆った紙面から目を覗かせる。
……いる。
にこにこと笑顔を作る麗華の、となりに。
真っ黒な血を吐いて襟元を濡らしながら立つ、『千紗』の姿が。
『あんたの……せいで……』
「ごめんなさいっ!」
彼女は、コーラスのグループからもクラスの絆からも離れ、独り旧校舎の廊下に出て走り出した。
「依央!」
「依央りん!」
依央。
依央。
依央。
依央。
級友たちの声が無数に頭にこだまして。
刺さって。
吐きそうなくらい、『それ』が恐ろしくて。
(……そういえば、あったな、そんなことも)
千紗は傍観しながら、練習の始めに同じことを見ていたことを思い出した。
たしか、それから休みがちになったんじゃなかったろうか。
記憶が正しければ。
あと。
記憶が正しければ。
自分が麗華の、となりに居たんじゃなかったろうか。
◇
それから、依央は常盤聖女に通えなくなってしまった。
あの夢の時と同じに、昼間でも部屋を暗くして、膝を抱えて。
そうしてないとあの責めるような声が聞こえてしまいそうで。
でもそうしてると、『千紗』がまた現れてしまうというのに。
オレンジ色の常夜灯だけが灯る部屋の中で、依央はベッドの上に膝を抱えていた。
震えが止まらない。
視線は、部屋の隅に固定されたまま動かない。
そこに、いる。
見えてはいない。
けれど、確かに『いる』とわかる。
「……いや……」
喉の奥がひりつく。
呼吸が浅くなる。
依央は、枕元に手を伸ばした。
指先が触れたのは、小さな銀のロザリオだった。
転入してきたときも、ずっと持っていたもの。
胸元で祈るための、たった一つの拠り所。
「……主よ……」
かすれた声で、言葉を紡ぐ。
「天にまします我らの父よ……」
指で珠をひとつ、ひとつなぞる。
震えでうまく数えられないけれど。
「どうか……どうか、私を……」
ぎし、と。
床が鳴る。
依央の喉も、ひゅっと鳴る。
「……ゆるして……ください……」
祈りの言葉が、形にならなくなってゆく。
「私、ちゃんと、やりますから……もう、逆らわないから……」
珠を強く握りしめる。
食い込むほどに。
「だから……お願い……」
涙が頬を伝う。
「もう、許して……」
その瞬間。
すぐ目の前に、気配が立った。
ロザリオを握る手の上に、冷たい何かが重なる。
「……っ!」
依央の視線が、ゆっくりと上がる。
そこに、いた。
ぼやけた輪郭が、形を持つ。
長い髪。
見覚えのある制服。
『あんたの……あんたのせいで……』
「いや……」
ロザリオを胸に押し当てる。
「主よ……主よ……!」
これは夢じゃない。
『現実』だ。
だからもう。
祈りは、もう言葉にならない。
『……くるしいよ……』
「やめて……お願い……」
『……バイ菌ちゃん……』
「ごめんなさいっ!」
依央は叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
ロザリオを握りしめたまま、ベッドに額を押し付ける。
「許して……お願い、許して……!」
しかし。
影は、消えない。
祈りも、届かない。
◇
彼女の祈りは、十日続いた。
彼女の地獄は、十日止まなかった。
ぴんこん。
そんなとき、一通のMINEが届いた。
差出人の名前は『A.Koichi』と、書いてあった。
◇
「大丈夫かい」
差し込む夕日から――千紗が殺された時と同じオレンジの光だ――放課後だとわかる。
薬品の臭いが鼻を突く理科室の窓際で。
「……」
「はは。ずいぶんと参ってるみたいじゃないか」
「……」
さわさわとほっぺたを撫でられながら、依央は俯く。
そして、意を決して、伝えることにした。
「……ます」
「ん?」
異星人は、にっこりとしたまま、聞き返してくる。
だから依央は、もう一度、告げた。
それが彼女の命運を分けてしまう一言だとしても。
「私、警察に言います」
◇
そこからの記憶は乱れてしまっていて、うまく読み取ることが出来なかった。
いくつかの言葉と、激しく揺れる映像だけが、残響のように残っていた。
「……なんだって?」
「そうか、きみも他の女と一緒だったんだな」
朝倉先生は、そんな感じのことを何回か、反芻するかのように喚いていた。
「先生、もうやめましょ。人殺しなんて、するべきじゃなかった」
「……おろしたな」
「?」
「俺と君との子供さ、堕ろしたんだろう」
「そんなこと、してないです。あれは本当に」
「君も同じだ、他の女と同じだ! 俺に嘘を吐く。俺を傷つけるんだ」
「先生、私、本当に先生のことが大好きです。でも」
その一言が、朝倉先生に残った理性を決壊させた。
「嘘を吐くな!」
先生はそう叫ぶと、依央の首を絞めた。
「ぅぐっ……」
朝倉先生はとても筋肉質だ。
力も、強い方だと思う。
少なくとも、貧弱な、千紗でも勝てるような彼女の息の根を止めることなんて。
それこそ、『赤子の手をひねる』くらいに、かんたんだった。
「……ッ!」
干渉して覗き見る千紗の意識にもノイズが走り始める。
「この嘘つき女め、やっぱり、やっぱり」
「……」
「死ね、そして俺のものになれぇっ!」
「……」
千紗の意識に、依央の最期の意識が流れ込み始める。
それは、意識して発したものではなく、脳回路が混線して起きた、バグみたいな音声だった。
◇
ちさ。
ちさ。
きこえる?
ねえ。
きこえる?
わたし。
わたしね。
ほんとうは。
あんたと。
◇
「――お前もあの子には敵わないんだな」
いちばん最期に聞こえたのは、朝倉先生のその声。
二十二人目を仕留めた、異星人の声だった。
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