【第二十話.混線】

 千紗は、依央の次の記憶に手を触れた。



「白い羽根が 校庭に舞う」


 まず耳に入るは、聞き覚えのあるフレーズ。

 だと思ったら、合唱コンクールの練習中のようだ。


(日付はええと……)


 千紗は視界の端に黒板に書かれたそれを見つける。

 ――美月が死ぬ少し前だ。


「誰もが笑う 午後の光」


 二年一組のハーモニーは最高だ。

 千紗は思う。

 こんなにも美しい声で歌えるなんて。


「揃えた声は 澄み渡るのに」


 と、依央が担当するソプラノパートの音を外す。

 篠原柚葉しのはらゆずはが奏でる――彼女は去年も弾いてくれた――ピアノがストップし、皆の視線が自分に集中する。

 焦燥と恥ずかしさで、ほっぺたがちりちりするのを感じる。


「そこはね、いったん下がってから、『のに』で上がるんだよ」


 麗華が優しく教授してくれる。

 でも、依央は彼女を見ていない。


「すいません、ごめんなさい」

「あー、ううん? 謝らなくてもいいんだよ?」


 楽譜で顔を隠す依央に、クラスのトップはやさしく声をかける。

 依央は、そうっと、覆った紙面から目を覗かせる。


 ……いる。

 にこにこと笑顔を作る麗華の、となりに。


 真っ黒な血を吐いて襟元を濡らしながら立つ、『千紗』の姿が。


『あんたの……せいで……』

「ごめんなさいっ!」


 彼女は、コーラスのグループからもクラスの絆からも離れ、独り旧校舎の廊下に出て走り出した。


「依央!」

「依央りん!」


 依央。

 依央。

 依央。

 依央。


 級友たちの声が無数に頭にこだまして。

 刺さって。


 吐きそうなくらい、『それ』が恐ろしくて。


(……そういえば、あったな、そんなことも)


 千紗は傍観しながら、練習の始めに同じことを見ていたことを思い出した。

 たしか、それから休みがちになったんじゃなかったろうか。

 記憶が正しければ。


 あと。


 記憶が正しければ。

 自分が麗華の、となりに居たんじゃなかったろうか。



 それから、依央は常盤聖女に通えなくなってしまった。

 あの夢の時と同じに、昼間でも部屋を暗くして、膝を抱えて。


 そうしてないとあの責めるような声が聞こえてしまいそうで。

 でもそうしてると、『千紗』がまた現れてしまうというのに。

 オレンジ色の常夜灯だけが灯る部屋の中で、依央はベッドの上に膝を抱えていた。


 震えが止まらない。

 視線は、部屋の隅に固定されたまま動かない。


 そこに、いる。

 見えてはいない。

 けれど、確かに『いる』とわかる。


「……いや……」


 喉の奥がひりつく。

 呼吸が浅くなる。


 依央は、枕元に手を伸ばした。

 指先が触れたのは、小さな銀のロザリオだった。


 転入してきたときも、ずっと持っていたもの。

 胸元で祈るための、たった一つの拠り所。


「……主よ……」


 かすれた声で、言葉を紡ぐ。


「天にまします我らの父よ……」


 指で珠をひとつ、ひとつなぞる。

 震えでうまく数えられないけれど。


「どうか……どうか、私を……」


 ぎし、と。

 床が鳴る。


 依央の喉も、ひゅっと鳴る。


「……ゆるして……ください……」


 祈りの言葉が、形にならなくなってゆく。


「私、ちゃんと、やりますから……もう、逆らわないから……」


 珠を強く握りしめる。

 食い込むほどに。


「だから……お願い……」


 涙が頬を伝う。


「もう、許して……」


 その瞬間。

 すぐ目の前に、気配が立った。


 ロザリオを握る手の上に、冷たい何かが重なる。


「……っ!」


 依央の視線が、ゆっくりと上がる。


 そこに、いた。


 ぼやけた輪郭が、形を持つ。


 長い髪。

 見覚えのある制服。


『あんたの……あんたのせいで……』

「いや……」


 ロザリオを胸に押し当てる。


「主よ……主よ……!」


 これは夢じゃない。

『現実』だ。


 だからもう。

 祈りは、もう言葉にならない。


『……くるしいよ……』

「やめて……お願い……」

『……バイ菌ちゃん……』

「ごめんなさいっ!」


依央は叫んだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」


ロザリオを握りしめたまま、ベッドに額を押し付ける。


「許して……お願い、許して……!」


 しかし。

 影は、消えない。

 祈りも、届かない。



 彼女の祈りは、十日続いた。

 彼女の地獄は、十日止まなかった。


 ぴんこん。


 そんなとき、一通のMINEが届いた。

 差出人の名前は『A.Koichi』と、書いてあった。



「大丈夫かい」


 差し込む夕日から――千紗が殺された時と同じオレンジの光だ――放課後だとわかる。

 薬品の臭いが鼻を突く理科室の窓際で。


「……」

「はは。ずいぶんと参ってるみたいじゃないか」

「……」


 さわさわとほっぺたを撫でられながら、依央は俯く。

 そして、意を決して、伝えることにした。


「……ます」

「ん?」


 異星人は、にっこりとしたまま、聞き返してくる。

 だから依央は、もう一度、告げた。


 それが彼女の命運を分けてしまう一言だとしても。


「私、警察に言います」



 そこからの記憶は乱れてしまっていて、うまく読み取ることが出来なかった。

 いくつかの言葉と、激しく揺れる映像だけが、残響のように残っていた。


「……なんだって?」

「そうか、きみも他の女と一緒だったんだな」


 朝倉先生は、そんな感じのことを何回か、反芻するかのように喚いていた。


「先生、もうやめましょ。人殺しなんて、するべきじゃなかった」

「……おろしたな」

「?」


「俺と君との子供さ、堕ろしたんだろう」

「そんなこと、してないです。あれは本当に」

「君も同じだ、他の女と同じだ! 俺に嘘を吐く。俺を傷つけるんだ」


「先生、私、本当に先生のことが大好きです。でも」


 その一言が、朝倉先生に残った理性を決壊させた。


「嘘を吐くな!」


 先生はそう叫ぶと、依央の首を絞めた。


「ぅぐっ……」


 朝倉先生はとても筋肉質だ。

 力も、強い方だと思う。

 少なくとも、貧弱な、千紗でも勝てるような彼女の息の根を止めることなんて。


 それこそ、『赤子の手をひねる』くらいに、かんたんだった。


「……ッ!」


 干渉して覗き見る千紗の意識にもノイズが走り始める。


「この嘘つき女め、やっぱり、やっぱり」

「……」

「死ね、そして俺のものになれぇっ!」

「……」


 千紗の意識に、依央の最期の意識が流れ込み始める。

 それは、意識して発したものではなく、脳回路が混線して起きた、バグみたいな音声だった。



 ちさ。

 ちさ。


 きこえる?

 ねえ。


 きこえる?


 わたし。

 わたしね。


 ほんとうは。


 あんたと。



「――お前もあの子には敵わないんだな」


 いちばん最期に聞こえたのは、朝倉先生のその声。

 二十二人目を仕留めた、異星人の声だった。

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