【第四章.千紗と落ちる影】

【第十六話.或る夏の思い出】

 放課後の教室。

 夕方の光で薄く赤く染まる窓の外。


 誰もいない教室には机を動かす音だけが響いていた。

 二人は机を二つくっつけ、その上に紙を広げる。


 五十音で円を描き、端には『はい』『いいえ』と書かれている。

 中央には十円玉。


 カーストトップクラスの、二階堂美月にかいどうみつきが笑う。


「じゃあ、始めよっか。綺乃」


 同じく最上位級の如月綺乃きさらぎあやのは腕を組んだまま、少し顔をしかめる。


「なんかさ、こういうのって小学生みたいじゃない?」

「いいじゃん。暇なんだから」


 美月は財布から出しておいた十円玉の上に、指を置いた。


「ほら、綺乃も」

「……やだなあ」


 そう言いながらも、綺乃は指を重ねる。

 二人の指が、十円玉に軽く触れた。


 教室は、しんという音が聞こえそうなほど静かだ。

 遠くの運動部の声、合唱部の歌声だけが、窓の外から聞こえる。


 美月が小声で言う。


「こっくりさん、こっくりさん。おいでください」


 十円玉は動かない。


「……ほら」


 綺乃がまるでホッとしたように笑う。


「やっぱ何も起きないじゃん」

「じゃあさ」


 美月は、ふっと口元を歪めた。


「鳴海千紗さん、鳴海千紗さん」


 少し大きな声で、言う。


「いたら出て来てください」


 綺乃が眉をひそめる。


「ちょっと、美月」

「なに?」

「それ、やめなよ」

「なんで?」


 美月は肩をすくめて、とぼけた。


「どうせ幽霊にでもなってるんじゃない?」


 くすくす笑う。

 美月は、そこにいるかもしれない千紗に、問いかけるように言葉を紡ぐ。


「ねえ千紗、来てる?」


 沈黙。

 十円玉は動かない。

 綺乃が安心して言う。


「ほら、なにも——」


 その時。

 教室の窓が、コトンと音を立てた。


 二人が振り向く。

 風が入ってきて、文字の書かれた紙が、かさりと揺れた。


 視線を戻す。

 十円玉は——動いていない。


 でも。

 二人の指の下にあるはずの十円玉の横に、誰も触っていないはずの鉛筆が転がっていた。


 その尖った先端は、紙の上で止まっている。

 指している文字は。


『は』


 次の瞬間。

 カタン。

 鉛筆が転がる。

 鉛筆のお尻が指した文字は。


『い』


「……え?」


 綺乃の声は、息を飲んだ。


 十円玉は動いていない。

 でも。


 紙の上には。


『はい』


 と出来上がっていた。

 棺の中のような沈黙が流れる。


 美月が、先に吹き出した。


「なんだよそれ」


 そして、不審な鉛筆をつまみ上げる。


「綺乃、仕込んだ?」

「やってない」

「またまた」


 紙を丸めて、ゴミ箱へ放り投げる。


「千紗の幽霊とか、いるわけないじゃん」


 美月の傲慢な笑い声が夕方の教室に響く。

 その時。


 教室の一番後ろの席の椅子がゆっくり動いた。


 きい……。


 と。

 誰も、そこには座ってなどいないのに。



「――ってことがあってさ」


 綺乃は青い顔で、鷹宮咲良たかみやさくらに打ち明ける。


「だから、千紗の呪いってわけ?」

「そーとは決まってないけどさ! 怖いじゃん、次の日それで死んじゃったんだから、美月」


 その声には、多分に震えが含まれていた。


「ええ、見てましたよ。ひとの名前で勝手にこっくりさんしてたの」


 ひそひそと話す二人の間で、千紗は鼻息を荒くする。

 ちょっと意地悪したつもりが、案外効いてしまったという体だ。


 ……それにしても。

 千紗は教室を見回す。


「落下事故らしいよ」

「プランターが落ちてきたって」

「雛乃が近くにいたらしいね」


 美月が死んだ翌日。

 教室は憶測と噂話と目撃証言であふれている、朝のホームルーム前。


 全体集会は二十分ほど前に終わり、校長先生が涙ながらに二年一組のエリート生徒・二階堂美月の死を告げた。


(美月も気の毒だったなあ。今頃天国で、大好きなKPOPの曲でも聴いてるのかな)


 千紗がため息交じりで亡きクラスメイトを回想していると、朝倉先生が入ってきて、同じように沈痛な面持ちで事故の経緯とその後のことを話し始めた。


 四階のプランターの固定が外れてしまっていたこと。

 この件で三年生の水やり当番を責めないでほしいこと。

 美月の通夜は明日、成城の斎場で行われること。

 葬儀に当たっては、しっかりと厳粛な気持ちで臨むこと。


 決して、変な噂話は広めないこと。


 ……などを、淡々と伝えた。


(まあ、でも、雛乃が無事で良かった。それだけは救いかな)


 千紗は昨日のことに対しては、誰の所為でもないし、ぶっちゃけ仕様がないことだった、悲しい『事故』だったくらいの感覚しか持ち合わせていない。


(ちょっとドライになっちゃってるかな、私ってば。まあでも)


 もともと美月の横柄な人柄には嫌気がさしていたし、千紗の『意識改革』の課題くらいにしか思っていなかった。


 それでも。


(もう少し、優しくしてあげればよかったのかな)



「なあ。鳴海はどう思う」


 夏。

 一学期の終わり。

 千紗、十六歳。


 生前。


 蝉がしゃわしゃわ鳴いていて、学校のグラウンドには誰も出てなくて、みんながクーラーの利いた教室でお昼ご飯を食べているとき。


 そう、あれは東京のアメダスも記録的な暑さを記録した、テスト前のある日のことだった。


 美月が、千紗を中庭に呼び出した。


 彼女の教師に隠れた素行の悪さは知っていたし、雛乃をいつもパシッていたのも知っていたから、正直嫌な予感しかしなかったのだけれど。

 当の本人は何やら気恥ずかしそうにしている。


「なに、相談って」


 彼女によると、カースト最上位の九条麗華くじょうれいかに、憧れに似た、自分でもよくわからない感情を持ってしまっているという。

 その熱量の持って行き場が分からなくて、困っている、とも。


 美月が話している間、千紗はどこか遠くからその様子を眺めているような気持ちになっていた。


 「どうして、それを私に言うの?」


 千紗は、悪気もなくそう返したつもりだった。


 「なんでだろ。……やっぱ、なんでもない。忘れて」


 けれど美月は、そうとだけ言うと、バツが悪そうにその場から、つまらなそうに立ち去った。



 千紗は、一人だけ残ったあの夏の中庭を思い出す。

 本当に、悪気はなかったのだろうか、と。


 いや、悪気はあったのかもしれない。

 カースト最上位クラスの女子に、そんな相談をされて、一体何を考えていたのだろうと、勘ぐっていたのかもしれない。


 ともかく。


 ――あの時、美月にもう少しだけ、優しくできていたなら。


 私がもう少しだけ、優しく生きていたなら。

 何かが変わったのだろうか。


 千紗は、この時からそう、考えるようになった。

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