【第十五話.硝子の教室】

 今日は、千紗にとって特別な日だ。


「他に、曲の候補、ありますかー」


 朝のホームルームにて。


 ついに三学期の世田谷区高校生合唱コンクールの自由曲が決まりそうなのだ。


 学級委員長であり合唱部部長の麗華が、多数決をこれから取る。

 千紗は幽霊ながら、手に汗握って、そわそわしながら見守った。


 黒板に書かれたのは、三曲。

 硝子の天国が、その中にある。


『硝子の天国』は、千紗の最推し・ルミナリアの、ワルツで奏でられるバラードソングだ。

 合唱部の発表曲こそ、他の曲に押されて負けてしまったが、今度こそは採用されてほしい。


(――大好きな、ユニットなんだもん)


 生きているとき、死ぬほどヘビーローテーションした。

 死んでもなお、その気持ちは変わらない。

 世田谷のあの区民ホールで聞いてみたい。

 それも、みんなの歌声で。

 ルミナリアを聞きたい。


(お願い、受かって……!)


 今日は依央が休みだ。

 全部で二十人。


「この曲がいいひとー」


 挙手したのは六人。


「こっちのがいいと思うひとー」


 七人が手を上げる。


「『硝子の天国』がいいひとー」

「はいはーい! はーい! ルミナリアがいいでぇーすっ!」


 千紗は授業参観の時の小学生みたいに手を振り上げた。

 手を上げたのは。


 八人。


「……はい、多数決の結果、ルミナリアの硝子の天国に決まりましたー」


 ぱちぱちぱち。


「ぃよっしゃぁぁああっ!!」


 千紗は、誰も聞こえないのをいいことに大絶叫。

 みんなの声で、それも麗華の天使の歌声で、ルミナリアが聞けるなんて。

 ボーカルのエリの歌う神々しいまでの旋律には、彼女こそが相応しい。


 はああっ!


 期待に胸を膨らます千紗をよそに、由依がポツリと呟いた。


「6たす7たす……やっぱり、多いよね」

「ほんとだ!」


 花音も同調する。


「ん? あれ、本当だ」


 黒板の前の麗華も気が付いた。


「ひとり、多くない?」



 実に不気味な結果となった曲決めだが、その後はすんなりと進んでいき、はすぐに忘れられた。


 さっそく、一時間目は音楽だ。

 みな、教室移動を始める。

 わいわいと仲良しが増えた二年一組は、カースト上下関係なく和やかな雰囲気だ。


 千紗が、カーストの根への干渉を続けているのだ。

 当の本人も、おおよそ上手くいっていることに満足気で鼻高々だ。


 だから、気づくのに遅れた。


 カースト最上位クラス・二階堂美月にかいどうみつきが下位の遠山雛乃とおやまひなのを、こっそりと本人にしかわからないよう呼び出していることに。

 その言葉には威圧が多分に含まれていて、雛乃は恐怖で手が震えていたことも。


 気づけなかった。



「痛っ」


 千紗が、悲鳴を聞いたのは、昼休み。

 一時間目に聴いたルミナリアを思い出し、満足げににんまりとしていたころ。

 また、ぼんやりとお腹が減って鳴る腹の虫に、耳を傾けていたころのことだ。


「ん? なに?」


 他のみんなには聞こえてないみたいで、何気なく見回すと。

 美月と雛乃が、いない。


 さっきの、叫び声。

 雛乃の声じゃあ、なかっただろうか。


 千紗は急いで窓に張り付くが、視界には入らない。


 窓の外から聞こえた。

 グラウンドか、渡り廊下の向こう側、つまり旧校舎と新校舎の間にある中庭から、ということになる。


 グラウンドには誰もいない。


 気がついたら、クラスメイトを守る為。

 彼女は、駆け出していた。



「なあ。雛乃、あんたさ。あたしらがちょっと優しくしたら、いい気になんのかよ?」

「べ、別に私、いい気になんか」

「じゃあなんでいつもの買ってきてねえんだよ」


 駆けつけると、美月が雛乃を恫喝している。

 ……ように、千紗には見えた。


「こらー、美月! 何してんのよー!」


 が、当然、伝わるはずもなく、その手は空しく宙を掻く。

 美月は、大げさにお腹を押さえるフリをする。


「あー、お腹減ったなあ。どっかの誰かが菓子パン買ってきてくれなかったからなあー」

「……なさいよ」

「あ?」


「自分のお昼ご飯くらい、自分で買いなさいよっ!」


(お、雛乃、やるじゃん)


 眼鏡でおさげの合唱部の女の子は、千紗の努力に勇気をもって応えてくれたのだ。

 だが、事態は感心している暇はないほど緊迫していた。


 ぷち。

 聞こえるはずのないそんな音が、千紗には聞こえたような気がした。


「ぃつからそんなに偉そうな口利くようになったんだよ、てめえはよっ!」


 美月が右手を振り上げる。

 まずい、美月はキレると手がつけられなくなるのだ。

 千紗は、膝を汚して這いつくばって、息を吹きかけるべき根を探した。


 横柄な美月を縛るスクールカーストの根は、どれも信じられないくらい太くて、ちょっとやそっとじゃ消えてくれそうにない。


 と、美月から一本、細い根が見えた。


(あれ、なんだこれ)


 それはとても細くて頼りなくて。


 ――綺麗で、きらきらと光っているように、千紗の瞳には映った。


 噛みつけば、簡単にほどけてしまいそう。


 時刻はお昼ご飯の昼休み。

 みんなお腹が減っていた。


 千紗も、例外でなかった。


 それに。

 早くしないと雛乃が叩かれてしまう。


 千紗は、みんなに優しいクラスであってほしかった。

 だから、躊躇している時間も理由もなかった。



 ごきゃっ。



 ん?


 なんの音だろうと思った瞬間、思いっきり頭から土を浴びる。


「わあっ、なんじゃこりゃっ」


 もちろん、土のつぶは全て千紗を通り抜けて、彼女にはかかっていない。

 同時に渡り廊下のコンクリートの床に、白いプランターと、そこに植えられていたパンジーの花が音を立ててばらまかれた。


 しかしかがんでいた千紗は、反射的に顔を両手ではたいて、その時に初めて気がついた。


 ぬるっと、真っ赤な血が顔に貼り付いていたことに。


「きゃああああ――っ!」


 雛乃が絹を割いたような悲鳴をあげた。


 反射的に立ち上がった千紗は、見てしまう。


 四階の窓際に植えられていた重たいプランターが頭に直撃して、頭蓋を割った美月の姿を。


「あれ」


 美月は不思議そうに自らの手についた血を眺めたあと、カツアゲをしていたクラスメイトに倒れ込むようにして絶命した。


「なんで」


 千紗は思わず声に出した。

 泣きながら悲鳴を上げ続ける雛乃にもたれて美月は、半眼を開いていて、その目と視線があった。


 ――なんだ、千紗。

 そこに居たのかよ。


 最期に彼女は、小さくそう言った。

 ような気がした。


「私が――やったの……?」


 千紗は口を押さえ、思わず零した。


「他に誰がいるの?」


 灯里が、温度のない声で、彼女の耳元でそっと告げた。

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