【第八話.見たくないもの】

「ええっ。ぅええっ」


 白石依央が、目の前で吐いている。


「ねえ、依央、あんた本当に大丈夫?」


 心配する千紗の声は、しかし空しく宙を舞った。


 六時間目の終わり、四階、美術室の脇の水道で。

 昼に飲んだ牛乳を――本当にそれしか摂取していないようだ――、思いっきりぶちまけている。


 手に持っているのは、体温計みたいな形の何かのキット。


 縦に一本、線が見える。


「はっ、はっ」


「あんたさ」


 千紗は、


「どうしちゃったの、ねえ――」



 今日の授業が終わり、まばらに生徒たちは帰っていく。

 穏やかな、午後。


 この世の終わりみたいな顔をした依央は、口をすすいで、息を整えた。


 ぴんこん。


 特徴的な着信音が鳴る。

 依央のスマホに、MINEが着信したようだ。


 リンゴマークではないその端末を取り出す。

 千紗はそうっと――する必要はないのだが、それでも――後ろから覗き見る。

 差出人の名前は『A.Koichi』とある。


『依央、大丈夫かい?』


 とんとんとんとん。

 スマホなのにフリック入力も出来ない不器用なクラスメイトは、担任と思しき相手の男を安心させようと必死だ。


『大丈夫です』


 ……と、打つまでに、二回。

 陽性でした、してました、と書いて消してを繰り返していた。


『本当? 検査薬、写メって送って』


 はああ。

 大きく息を吐いて狼狽えた。


「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」


 千紗の目の前で、いじめられっ子はあからさまに動転している。


 二往復した後、突然、がらっと美術室の扉が開いた。

 美術部の子たちが帰るようだ。


「やっほー、依央りん、あれ、理科部も終わり? なら一緒に帰ろうぜ」


 このうるさいガサツは、藤沢美央ふじさわみおだ。

 運動部でもないのに百七十五以上もある高身長で、それでいて絵もうまいければ足も速いという、よくわからない子だ。


 ぴんこん。


 でも、依央に今、彼女の相手をする余裕はない。


「む、無理無理、今日は無理」

「どした? 腹でも痛いか?」

「先に帰って。お願い。――お願いだからっ」


 しかし、他者との境界が異様に近い美央を丁重に断るのは、不可能に近い。


「なあ、依央りん――」


 ぴんこん。


 だから、『こう』なるのは必然だった。


「無理だってば! しつっこいんだよ! どいつもこいつも!」


 千紗は、ふらふらと走り去る彼女を追った。



 どちらが幽霊かわからないほど、細い脚を無理やり回して、依央は美術室の隣の理科室に逃げ込んだ。


 理科部の面子も帰っていて、牧村梓まきむらあずさ小坂玲奈こさかれなももういない。


 誰もいない薄暗がりで、依央は恐る恐る自分のスマホを見る。


『大丈夫?』

『既読つかないけど』

『おーい』


「ううう」


 黄緑色のメッセージを見て、お腹を抱えてうなっている。


 千紗は、依央を安心させてあげたくなった。

 だから彼女の背中に、そっと触れた。


「!」


 依央は、まるで鹿のように跳ねるほど驚いて、立ち上がり振り返る。

 が、何も見えてはいないようで、曖昧に視界を動かすとまた席に着いた。


 けれど、千紗の手には既に伝わっていた。


 ――とくとくとく、と脈打つ、依央のものではない小さな鼓動が。


 携帯を必死にタップする背中に、千紗は思わず零す。


「依央、あんたってば、まさか」


『先生、ごめんなさい』

『いまどこ』

『理科室です』

『職員会議終わったらすぐ行くよ。待ってて』


 責める気も、同情する気にもなれなかった。

 背後の窓の外側では、スマホを握りしめすすり泣く依央のように、雨がとめどなく零れている。


「依央はさ、私を殺したこと、何とも思わないの?」


 四階からは、遠くに副都心のビルがよく見える。


「わかんないよね、殺されたことなんて、ないんだもん」


 電車に乗って、よく遊びに行った。

 小さい頃は祖母に連れられて。

 小学生の頃は美雪に連れられて。

 中学生になったら、親友と。


 山口君と。


「でもね、なんだか憎くないんだ、あんたのこと」


 原宿に行った。

 竹下通りでクレープを食べた。


 新宿の都庁に昇った。

 展望室で富士山が見えるとはしゃいだ。


 山口君と。


「殺されても仕方のない、悪い子だったんだもんね?」


 卒業式の前の日、ラブレターをもらった。

 オーケーなら、裏庭で咲く、桜の木の下に来てください。


 どうしても、考えられなかった。


 彼が『彼』になることが。

 楽しい日が、楽しかった日々の全てが、終わってしまうことが。


「だから、私のスマホ、捨てたんでしょう」


 彼の『彼女』になって『女の人』になることが。


「だから、私のこと、殺したんでしょう」


 雨は降り続く。


 母になる依央と。

 母にはなれない千紗を包み込むみたいに。


「だから憎んでないよ、あんたのこと」



 十数分後、先生が理科室にやってきた。


「ほら、先生。依央が泣いてるよ。慰めてあげ――」


 朝倉は、しかし、千紗のことなど文字通り眼中になかった。

 依央のもとに駆け寄ると、映画とかドラマみたいに抱きしめて、キスをした。


「……えーっと」


 そして実験テーブルに押し倒し、ベルトを外して、スカートの中にいった。


「先生っ、せんせえっ」


 自分を殺した場所のその真上で。

 信じられないことを始める二人の男と女。


 自分を殺した、ふたり。


「あんたたち……」


 ――オーケーなら、裏庭で咲く、桜の木の下に来てください。

 ――やだよ、行ったらあんた、変わっちゃうでしょ。


「あんたたち、何やってんのよぉーっ!」


 千紗は叫んで、その場から走り出した。

 確か、理科準備室に続く扉だったはず。


 そこに。


 だーん。


 ものすごい音がしてその扉に額を打ち付けた。


「つっ――たた」


 目から火花を散らして、数歩下がる。

 と、振り返ると愛し合う二人と目が合う。


「なに今の……」

「……雷でも落ちたかな」


 おでこを真っ赤にした千紗は、もう訳が分からない。


「もう、知らないっ!」


 千紗は駆けだして、今度は廊下に飛び出した。

 今度はぶつかることなくすり抜けた。



 やっぱり、依央なんて嫌いだ。

 やっぱり、許してなんかやるもんか。

 やっぱり、やっぱり。


 やっぱり。


「大っ嫌いだ―!」


 叫びながら、走った。

 泣きながら、涙を散らして。


 渡り廊下を抜けて、旧校舎の階段を駆け下り、昇降口を出て、グラウンドに出て。

 そして、校門に差し掛かった、まさにその時。


 がくん。


「! あれっ?」


 足が、ぺったりと地面にくっついて、離れない。


「今度は何よう!」


 思いっきり気張って、全力で向こうに見える歩道に足を乗せようとする。

 ところが、敷地の境界に近づけば近づくほど足は重たくなり、校門の真上でついに動かなくなった。


「こ、このっ、このおっ」


 それどころか、足のみならず手や頭も、学校の敷地から外に出せないことに気付く。


「えー……。学校から、出られなくなくなっちゃった?」


 雨の女子高の校門前で、途方に暮れる、千紗。

 この時、彼女の『在り方』に重大な変化が起こっているのだが、彼女が知るのはもう少し先のことである。

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