【第八話.見たくないもの】
「ええっ。ぅええっ」
白石依央が、目の前で吐いている。
「ねえ、依央、あんた本当に大丈夫?」
心配する千紗の声は、しかし空しく宙を舞った。
六時間目の終わり、四階、美術室の脇の水道で。
昼に飲んだ牛乳を――本当にそれしか摂取していないようだ――、思いっきりぶちまけている。
手に持っているのは、体温計みたいな形の何かのキット。
縦に一本、線が見える。
「はっ、はっ」
「あんたさ」
千紗は、それがなにを意味するかをまだ知らない。
「どうしちゃったの、ねえ――」
◇
今日の授業が終わり、まばらに生徒たちは帰っていく。
穏やかな、午後。
この世の終わりみたいな顔をした依央は、口をすすいで、息を整えた。
ぴんこん。
特徴的な着信音が鳴る。
依央のスマホに、MINEが着信したようだ。
リンゴマークではないその端末を取り出す。
千紗はそうっと――する必要はないのだが、それでも――後ろから覗き見る。
差出人の名前は『A.Koichi』とある。
『依央、大丈夫かい?』
とんとんとんとん。
スマホなのにフリック入力も出来ない不器用なクラスメイトは、担任と思しき相手の男を安心させようと必死だ。
『大丈夫です』
……と、打つまでに、二回。
陽性でした、してました、と書いて消してを繰り返していた。
『本当? 検査薬、写メって送って』
はああ。
大きく息を吐いて狼狽えた。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
千紗の目の前で、いじめられっ子はあからさまに動転している。
二往復した後、突然、がらっと美術室の扉が開いた。
美術部の子たちが帰るようだ。
「やっほー、依央りん、あれ、理科部も終わり? なら一緒に帰ろうぜ」
このうるさいガサツは、
運動部でもないのに百七十五以上もある高身長で、それでいて絵もうまいければ足も速いという、よくわからない子だ。
ぴんこん。
でも、依央に今、彼女の相手をする余裕はない。
「む、無理無理、今日は無理」
「どした? 腹でも痛いか?」
「先に帰って。お願い。――お願いだからっ」
しかし、他者との境界が異様に近い美央を丁重に断るのは、不可能に近い。
「なあ、依央りん――」
ぴんこん。
だから、『こう』なるのは必然だった。
「無理だってば! しつっこいんだよ! どいつもこいつも!」
千紗は、ふらふらと走り去る彼女を追った。
◇
どちらが幽霊かわからないほど、細い脚を無理やり回して、依央は美術室の隣の理科室に逃げ込んだ。
理科部の面子も帰っていて、
誰もいない薄暗がりで、依央は恐る恐る自分のスマホを見る。
『大丈夫?』
『既読つかないけど』
『おーい』
「ううう」
黄緑色のメッセージを見て、お腹を抱えてうなっている。
千紗は、依央を安心させてあげたくなった。
だから彼女の背中に、そっと触れた。
「!」
依央は、まるで鹿のように跳ねるほど驚いて、立ち上がり振り返る。
が、何も見えてはいないようで、曖昧に視界を動かすとまた席に着いた。
けれど、千紗の手には既に伝わっていた。
――とくとくとく、と脈打つ、依央のものではない小さな鼓動が。
携帯を必死にタップする背中に、千紗は思わず零す。
「依央、あんたってば、まさか」
『先生、ごめんなさい』
『いまどこ』
『理科室です』
『職員会議終わったらすぐ行くよ。待ってて』
責める気も、同情する気にもなれなかった。
背後の窓の外側では、スマホを握りしめすすり泣く依央のように、雨がとめどなく零れている。
「依央はさ、私を殺したこと、何とも思わないの?」
四階からは、遠くに副都心のビルがよく見える。
「わかんないよね、殺されたことなんて、ないんだもん」
電車に乗って、よく遊びに行った。
小さい頃は祖母に連れられて。
小学生の頃は美雪に連れられて。
中学生になったら、親友と。
山口君と。
「でもね、なんだか憎くないんだ、あんたのこと」
原宿に行った。
竹下通りでクレープを食べた。
新宿の都庁に昇った。
展望室で富士山が見えるとはしゃいだ。
山口君と。
「殺されても仕方のない、悪い子だったんだもんね?」
卒業式の前の日、ラブレターをもらった。
オーケーなら、裏庭で咲く、桜の木の下に来てください。
どうしても、考えられなかった。
彼が『彼』になることが。
楽しい日が、楽しかった日々の全てが、終わってしまうことが。
「だから、私のスマホ、捨てたんでしょう」
彼の『彼女』になって『女の人』になることが。
「だから、私のこと、殺したんでしょう」
雨は降り続く。
母になる依央と。
母にはなれない千紗を包み込むみたいに。
「だから憎んでないよ、あんたのこと」
◇
十数分後、先生が理科室にやってきた。
「ほら、先生。依央が泣いてるよ。慰めてあげ――」
朝倉は、しかし、千紗のことなど文字通り眼中になかった。
依央のもとに駆け寄ると、映画とかドラマみたいに抱きしめて、キスをした。
「……えーっと」
そして実験テーブルに押し倒し、ベルトを外して、スカートの中に入っていった。
「先生っ、せんせえっ」
自分を殺した場所のその真上で。
千紗にとって信じられないことを始める二人の男と女。
自分を殺した、ふたり。
「あんたたち……」
――オーケーなら、裏庭で咲く、桜の木の下に来てください。
――やだよ、行ったらあんた、変わっちゃうでしょ。
「あんたたち、何やってんのよぉーっ!」
千紗は叫んで、その場から走り出した。
確か、理科準備室に続く扉だったはず。
そこに。
だーん。
ものすごい音がしてその扉に額を打ち付けた。
「つっ――たた」
目から火花を散らして、数歩下がる。
と、振り返ると愛し合う二人と目が合う。
「なに今の……」
「……雷でも落ちたかな」
おでこを真っ赤にした千紗は、もう訳が分からない。
「もう、知らないっ!」
千紗は駆けだして、今度は廊下に飛び出した。
今度はぶつかることなくすり抜けた。
◇
やっぱり、依央なんて嫌いだ。
やっぱり、許してなんかやるもんか。
やっぱり、やっぱり。
やっぱり。
「大っ嫌いだ―!」
叫びながら、走った。
泣きながら、涙を散らして。
渡り廊下を抜けて、旧校舎の階段を駆け下り、昇降口を出て、グラウンドに出て。
そして、校門に差し掛かった、まさにその時。
がくん。
「! あれっ?」
足が、ぺったりと地面にくっついて、離れない。
「今度は何よう!」
思いっきり気張って、全力で向こうに見える歩道に足を乗せようとする。
ところが、敷地の境界に近づけば近づくほど足は重たくなり、校門の真上でついに動かなくなった。
「こ、このっ、このおっ」
それどころか、足のみならず手や頭も、学校の敷地から外に出せないことに気付く。
「えー……。学校から、出られなくなくなっちゃった?」
雨の女子高の校門前で、途方に暮れる、千紗。
この時、彼女の『在り方』に重大な変化が起こっているのだが、彼女が知るのはもう少し先のことである。
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