【第二章.千紗がいない教室】

【第六話.警視庁世田谷警察署にて】

 朝になった。


 美雪は千紗の卒業アルバムを抱いたまま、ベッドに転がり、身動き一つしない。

 時折、いきなり携帯を取り出しては液晶画面を凝視し、それが娘からの連絡の通知でないことを確認すると、また魂が抜けたような目にもどり、ベッドに倒れこむ。


 その繰り返しの、数時間。

 一睡もしていないのだ。


 眠いだろうなぁと、千紗は思う。

 瞼を真っ赤に腫らして沈黙に耐える姿は見ていられないほどだ。


 時々通知の来る母のスマートフォン。

 もしそれが自分からの連絡だったら、と考える。


 怒るだろうか。

 怒鳴り散らして、頬をはたくだろうか。

 それとも。


 ――優しく抱きしめてくれるだろうか。


(……さむい)


 千紗は心臓の底から指の先までもが冷えて凍えそうになるのを感じる。

 温めて欲しい。

 母のぬくもりが、恋しかった。


「お母さん」


 声をかけようとしたその時、扉が開いた。


「みゆ……大丈夫?」

「……」

「じゃあ、時間だから……行ってくるよ」

「好きにすれば」


 父・宗一郎とはつまり、こういう人物だ。

 優しくて、思いやりがあって、頼めばなんでも買ってくれる。


 でも、仕事という呪縛からは離れられない人種だった。

 家庭での距離感、触れ合い方、危機感。


 それら全てより定時に出社することの方が大切なのであった。


「千紗」


 唐突に名を呼ばれ、千紗は視線を父親の去った扉から、反対側の美雪に移す。

 階下で、玄関の扉が閉まる音がする。

 宗一郎が出て行ったのだ。


 それは、夫婦の取り返しのつかない亀裂の決定打となるのだが、今はまだ宗一郎は気付かない。


「だいじょうぶ。だいじょうぶよ」


 目と鼻の先に、娘が膝をついて見つめていることに気付かない母は、まるで自分に言い聞かせるかのように、繰り返した。


「お母さんが、見つけ出してあげる。何があっても。どこにいても」



 八時半になり、美雪は行動を開始した。

 洗面所に立ち、必要最低限の化粧だけ施すと、千紗がバイトの初給料で買ってあげたレスポのバッグに、財布、免許証、それから中学校のアルバム……は入らないので、マルイの紙袋に入れて、立った。


 そのままの勢いで――服は昨日のままだ――、庭の駐車スペースに止めてある青の軽自動車に乗り込んだ。


 母があまりに鮮やかに外出準備を終えるので、千紗はついて行くのがやっとだった。

 なんとか助手席に滑り込むと、美雪はシフトレバーをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。


 その時。


 ぽーん。

 警告音が鳴った。


「? 何かしら」


 見ると、スピードメーター脇のマルチディスプレイに、警告文が表示されている。


『シートベルトを着用してください』


「ん?」


 美雪は、シフトレバーをパーキングに入れ、自分のシートベルトを触る。

 しっかり、止まっている。

 もちろん問題なく金具に接続されている。


「……なんだろ」


 無視して、もう一度ドライブに入れる。


 ぽーん。


『シートベルトを着用してください』


 カーナビゲーションを見る。

 同じ表示が出ている。


 が、エラーの出ている個所の表示を見て息を飲む。


 シートベルトを着用してください』


 がくん。

 美雪はフットブレーキを入れ、パーキングにシフトチェンジし、エンジンを切り――。


 ゆっくり、空の助手席の方を向き直った。


「そこにいるの? 千紗……」


 こっそりと後部座席に逃げた千紗は、こくりと頷いた。


「……そっか。ありがとうね。千紗。あなたは優しい子ね」


 母親は涙をこらえてエンジンを再びかけ、ドライブに入れた。


「――違うよ。 そんなに優しくなかったよ」


 今度は、なんのエラーも表示されなかった。



 少し走って、三軒茶屋にある、警視庁世田谷警察署にクルマを停めた。


 窓口で名前を告げると、女性警察官に奥の相談ブースへ通される。


 応対に出てきたのは、四十過ぎの警察官だ。

 名刺を渡してくる。

 根岸卓郎と書かれていた。


「昨日お電話いただいた鳴海さんですね。本日はご足労ありがとうございます」

「いえ……こちらこそ。あの、娘がまだ帰っていなくて……」

「はい、承知しています。では改めて確認させてください。失踪されたのは高校二年生、鳴海千紗さん、十六歳でお間違いないですね?」


 敢えて感情を抑えて対応してくれているのだが、失踪という二文字を前にすると、美雪は現実を改めて突き付けられているかのように感じ、膝上の握る手に力が籠る。


「……はい」


 根岸は、美雪の言葉を待って、それからゆっくりと質問を続けた。


「最後に確認されたのは昨日の放課後以降、ということでしたね」

「はい。学校には行っています。確認は取ってあります。部活もあったはずです。でも……帰ってきませんでした」

「スマートフォンは現在も電源が入っていない状態ですか?」

「……はい。ずっと繋がりません」


 となりで聞く千紗は、握りしめるその手を見る。爪が食い込み、血が滲んでいる。


「わかりました。では本日、行方不明者届を正式に受理します」


 根岸はその言葉の後、書類を机に置く。

 行方不明者届、と書いてある。


「こちらに娘さんの特徴をできるだけ詳しくご記入ください。身長、体型、髪型、服装。あと、最近の様子も」

「最近の……様子」

「学校でのトラブル、交友関係の変化、悩みごとなど。小さなことでも構いません」


 しばしの沈黙が流れる。

 美雪は、どうしても伝えたい思いを口にする。


「……いじめは、ありません」


 けれど、根岸はあくまでも冷静だ。


「確認ですが、『していた』可能性も含めて、思い当たることは?」

「……」


 母の目にきらきらと涙の光が宿るのが、千紗の視界にも入る。


「……あの子は、優しい子です」


 根岸は一拍置いて、頷いた。


「承知しました」


 根岸は美雪から受け取った書類にペンを走らせながら、感情を寄り添わせる。


「未成年ですので、優先的に扱います。まず通学路、防犯カメラの確認、学校への聞き取りを進めます」


 美雪は渇く口を持ち込んだペットボトルのお茶で潤してから、慎重に、言葉を選んで聞いた。


「……事件の可能性は」

「現時点では断定できません。ただし、未成年の長時間失踪です。慎重に見ます」


 やわらかいが、淡々とした声で根岸は答える。


「もし、娘さんから連絡があった場合は、すぐにこちらへご連絡ください」

「……はい」

「それから」


 四十過ぎの優しい警察官は、少しだけ視線を上げ、絶望の淵に立つ母親に告げた。


「最悪の想定も、心のどこかに置いておいてください。ただし、今は可能性を一つずつ消していく段階です」

「……」

「必ず、何らかの痕跡は残ります」


 彼はペタッと書類に受理印を押した。


「本日付で、行方不明者届、受理しました」



 美雪は真っすぐ、家に帰った。

 そして、テーブルに着くと、深く、そしてゆっくりと息を吐いた。

 切れた掌をさすっている。


 千紗は時計を見る。

 十時前だ。


 今から行けば、歩いて行っても三時間目には間に合う。


 ――学校のことが、気になった。


「お母さんごめんね。ちょっと学校に行ってくる」


 そう言ってリビングの扉をすり抜けた。


 ちりん。


 また鳴った鈴に、ハッとして数歩戻ってもう一度見つめる。

 中三の修学旅行の京都で買った、お土産の鈴だ。


 もう一度鳴らそうと触ってみる。

 が、やはりすり抜けてしまう。


(んー?)


 千紗はその鈴をしばらくじいっと見た後、息を吹きかけてみた。


 ちりん。


(そっか、息だ!)


 息なら、この世界の物に、干渉できる!

 これは大きな発見だ。


 ぱたぱたとスリッパの音を鳴らして、美雪が近づいてきた。

 彼女も、風もないのに鳴る鈴が気になったようだ。


「お母さん!」


 ふうっ。


 今度は母親の耳元に、囁くように息を吹きかけてみた。


「――!」


 寒い。

 そう呟くと、


「あれ?」


 予想外の反応に、戸惑う千紗。

 美雪はそのまま体温計を脇に差す。


 ぴぴぴぴ。

 三十八度一分。


「やだ――こんな時に」


 母親はそう言うと、風邪薬を探し始めた。


 自分が何をしたのかわからない千紗は、テーブルに置かれた体温計から、目を離すことが出来なかった。

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