【第五話.行方不明者届】
「さすがにおかしいわ」
夜九時を回った頃。
ママ友たちのあらかた全部に連絡を済ませ、『そこ』には居ないと確認した美雪が立ち上がった。
テーブルの向かいに、父親の宗一郎も同席する。
呑気な父だが、さすがに表情が固くなっているのが、千紗にも伝わる。
「遅すぎるね」
「遅いだけならまだいいわ」
そういって美雪はスマホを――七月の美雪の誕生日に、千紗と一緒に機種変したリンゴマークの黒いスマホ――宗一郎の耳に付ける。
「――おかけになった番号は、現在、電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため、かかりません。おかけになった番号は――」
「いつも、絶対に電源だけは切らすなって言ってあるのよ。毎日フル充電しているはずだわ」
「今でもカラオケのある古い雑居ビルとかは電波は悪いしなあ」
「あのねえ、宗ちゃん!」
美雪は声を荒げる。
「絶対におかしいって、なんで思わないのっ? あの子が、あの真面目で優しい千紗が、無断で夜遅くまで遊び回るはずがないでしょっ? なんでわかんないかな!」
父親は、もにょもにょとバツが悪そうに口ごもる。
千紗は、ちくちくと美雪の言葉が胸にささる。
「お母さん」
千紗は、思い切って口を開く。
言いたくないけど、伝えたかった。
「あのね。私……」
その時ふと、美雪が顔を上げた。
目が――合った。
「私、そんなに、いい子じゃ……なかった。悪い子だった」
「ううん、違う。違うよ」
なぜだかわからない。
どうしてだかわからない。
「千紗はいい子だよ」
「みゆ? どした?」
ただ、この時。
「え? ……ああ、宗ちゃん。何か言った?」
「いや……」
確かに美雪の声は、落ち込む娘に届いたのだ。
「……ありがと」
――お母さんの優しさ。
見えなくてもとどくよ。
ぽろぽろと涙をこぼす、千紗。
「降ってきたね」
窓を見ていた宗一郎が、ぽつりと呟いた。
彼の娘もまた、泣き続けた。
◇
十時を過ぎても帰らない千紗を思う美雪は、壁掛け時計の時刻が変わると同時に、テーブルに置いたスマホを取った。
「――もしもし」
110番通報をしたのだ。
宗一郎も耳を凝らして聞いている。
千紗にまでは、警察が何と聞いてきているのか詳細はわからないが、おおよそ次の事を聞いているようだ。
氏名・年齢・性別。
身長・服装・持ち物。
スマホ所持の有無。
最後に確認した時間・場所。
誰といたか。
最近の様子――喧嘩・いじめ・家出傾向などないか。
いじめはありません。
してないし、されていません。
そんなことする子じゃありません。
即答で断言する母の言葉が、痛かった。
◇
しばらく、はい、いいえ、そうです、違います、と、短く答えた後。
「そうですか。――ええ、はい、わかりました。それでは……はい。失礼します」
と続けて、スマホの通話終了をタップした。
「みゆ、どうだった?」
「……」
ふううっ。大きく息を吐いて、俯いた。
そして、潤んだ眼で夫を直視した。
「……まだ、事件性は不明。校長先生には連絡してくれるって。で、なんだっけ、生活安全課? が主導でパトカーで、高校や通学路を巡回してくれるって。それで――事故・誘拐・自殺の恐れもありえますって」
「自殺っ? 千紗がっ?」
「恐れもありえるって言ったでしょ! まだわかんないんだってばっ! 最後まで聞きなさいよっ」
宗一郎の肩をパンと叩くと、美雪は続けた。
「で、なんだっけ……そうだ、明日になっても状況が変わらなければ、行方不明者届を出してください、受理します、だってさ……」
「行方不明者届……千紗が」
声のトーンをみるみる落とした美雪は、頼りにならない伴侶の方を向き直り、そして、涙を散らした。
「宗ちゃん! どうしよう。あたし、千紗が居なくなったら。どうしよう。ねえ、宗ちゃん! そうちゃん!」
四十四歳の気丈な女は、三つ年下の男に、すがりつき、声を上げて泣き始めた。
まるで迷子になった子供のように泣く母親を、千紗は見ていることなど到底できなかった。
まして、泣かないでと伝えることなど、叶うことは二度とないのだ。
千紗は二階の自室に籠ろうと思った。
だから、リビングに背を向けた。
ちりん。
扉を『すり抜けた』とき、何故か吊り下げた小さな鈴が鳴った。
◇
部屋は、暗い。
明かりをつけることが出来ないためだが、人生でいちばん長く過ごした場所だ。
やっぱり、落ち着く。
道を歩いている時に苛んだ、心がすとんとどこかに落ちていくかのような感覚が、しなくて済む。
ベッドに座る。
大好きな青のキャラクターのベッドカバーだ。
柔らかい。
不思議だ。
ベッドは確かに柔らかいのに、座ってもシワ一つ付かず、沈み込みもしない。
それなのに、柔らかいと感じる。
ぼふっと、千紗はベッドに横になる。
(あー。私、死んじゃったのかあ)
隣の壁を見る。
人気女性ボーカルグループ『ルミナリア』のポスターが貼ってある。
透明感と神聖さを売りにしたグループで、宗教的・清廉なイメージで人気上昇中だ。
特に、動画再生サイトで再生累計二億回を超えた、『硝子の天国』は、合唱部で以前に課題曲として推した記憶がある。
推薦の甲斐なく別の曲になってしまったが、高校内での今度の合唱コンクールで歌いたいなぁ、と思っていた。
あ。
(死んじゃったから、硝子の天国、歌えないじゃん)
そんなことをひとりごちていると。
とん、とん、とん、とん。
誰かが階段を上がってくる。
この音は、美雪だ。
がちゃり。
「お母さん」
母親は電気をつけると、よたよたまるでお婆さんのような歩みで、千紗の机の前に立った。
「あ、あのね、それは見ないで――」
娘の願いもむなしく、居なくなってしまった一人娘を愛する美雪は、学習机に立ててある中学校の卒業アルバムを手に取る。
「ん?」
ケースから出すと、一枚の封筒が出てきた。
鳴海千紗さまへ。
「なにかしら」
「あー、ほら、見ないでっていったのにぃ」
隣の家の山口くんからのラブレターだ。
彼は、本当に千紗のことを好きでいてくれた。
でも、娘が山口くんと付き合ったとは聞いていない。
「そっか、近すぎちゃったか」
「え?」
お母さんは、いつの間にか千紗の心を読んだ。
美雪はそっとその手紙を机に置くと、アルバムを抱いて千紗の隣に座る。
一学年一クラスしかない高校と違って、F組まである世田谷区立のマンモス校だった。
千紗は、三年生のときはB組だった。
彼女もまた、B組のページをまず開いた。
この頃は、髪も黒髪で地味だった。
写真写りがいつも悪くて、いつも三白眼になっている。
「千紗はいつも、この顔だったのよね」
そういえば。
千紗は思う。
三白眼を母に笑われたことは、一度もなかった。
ページをめくる。
一年生の時のスキー教室。
長野の白馬までバスで行った。
でも雪が酷くて、雪だるまみたいになりながら滑った。
ロッヂでカレーを食べてる所を撮られた写真が載っている。
隣で笑うのは山口くん。
二年生の運動会の写真。
あろうことか、徒競走の、変顔を撮られた。
くすりと、お母さんは笑う。
三年生の修学旅行は、京都・奈良。
鹿に餌をあげている所で載っている。
美味しそうに食べる鹿が可愛くて。
動物が、好きだった。
猫が飼いたい、とずっと言っていた。
「ごめんね、飼ってあげなくて。ごめんね」
ぽとり、ビー玉みたいな涙をこぼした。
「お母さん。もういいから。だから」
「ああああぁ――っ」
修学旅行のページを濡らしながら、美雪は喉が切れるかのように激しく慟哭した。
「みゆ、大丈夫か」
「こないでよおっ!」
まるで同い年の子供のように、千紗には見えた。
「お母さん」
鳴海美雪は、その後四十分に渡って泣き続けた。
千紗は、耳を塞いでいた両手を下ろした。
塞いでも塞がなくても、流れ込んでくるから。
自分のことを想い続ける、母親の、涙と愛が。
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