【第四話.母の前で】
世田谷区成城にある中央公園。
その一角にある、小さな小さな池の前で。
千紗は立ちすくんでいる。
十メートルほど先に沈む、もう光らない自分のスマホを見ながら。
何分か前に、クラスメイトに投げ捨てられたのだ。
ちなみに、その同級生は既に立ち去り、もうここにはいない。
そもそも、向こうはクラスメイトとして見ては居なかっただろう。
自分をいじめる憎い憎いいじめっ子として見ていた。
当然の帰結なわけだが、千紗がそれを知ったのはつい十数分前のことだ。
(そっか。そりゃそうか)
池に沈んだ自身のスマートフォンをみながら、ぼんやりと考えていた。
なんとなく、誰かに、『これが全ての答えだ』と突き付けられているかのよう。
今はもう、水に入れても水没したそれを回収することは出来ない。
千紗に出来うることは、ただ見ていることだけ。
一体どれくらいの憎しみをたたえていたんだろう。
一体どれくらいの涙を流していたんだろう。
死してなお推し量ることしかできない不自由さと自分の過ちの大きさに打ちひしがれながら、立つこと数分。
と、思ったら、いつの間にか視界が真っ暗になっている。
(あれえ?)
一瞬、立ちくらみでも起こしたのでは、と勘ぐる。
――だが、ちがう。
暗くなったのは彼女の眼ではなく、千紗の周囲だ。
つまり、自分でも全く気付かぬうちに、何時間か経過して夜になっていたのだ。
(……帰らなきゃ)
極々自然に、彼女は池に背を向けて歩き出した。
◇
依央と歩いた先程とは違い、帰り道はやけに薄ら寒かった。
気温が低かったのもあるが、その所為ではないと言えた。
歩いていると、ふと置いていってしまいそうになるのだ。
自分の姿かたち。
思い出――大切だったもの、ひと。
自分の声。
好きなもの、歌。
一歩歩くごとに、忘れていくような、そんな感覚。
いつも自転車で通り抜ける商店街のショーウインドに映らない自分を『見て』、考える。
千紗という少女は、何者であったのか。
と、その時だった。
革靴の音を立てて足早に歩く若いサラリーマンの接近に、気付くのが遅れてしまった。
いつもなら半身で避けるところ、もろにぶつかってしまう。
「あっ、すいませ――」
ところが。
若い青年は、そのまま千紗の中に押し入ってきた。
「ぎ」
内蔵が、器官が、血管が、脳が、サラリーマンと重なる。
「ぎぃあああっ」
千紗は悲鳴を上げる。
脳で処理できない感覚が五感すべてに流れ込んでくる。
――くそ、あのくそ課長。
――いつも無茶ばかり押し付けて来やがって。
――俺のことをなんだと思ってるんだ。
「やめて、やめてえっ!」
――辞めてやる、あんな会社。
――もうごめんだ、今度こそ言うんだ。
「いやあっ、痛いよう、やめてえっ」
時間にして一秒の半分くらいだったが。
『他者の記憶』に千紗の未熟な脳が焼かれるには、じゅうぶんな長さだった。
サラリーマンは、千紗を通り抜けて去った。
ばらばらに飛び散った彼女が再び集まるまで何倍もの時間が必要だった。
◇
白いタイルが美しい、我が家に着いた時、夜は八時を過ぎていた。
なんとなく、上がりにくくて――死んじゃったと言えなくて――、インターホンを押してみるが、手はむなしく機械ごと壁を透き通った。
仕方がないので、思い切って、ドアに頭突きをする。
すると、するりと身体は通り抜け、鳴海家にいとも簡単に帰ることが出来た。
「……ただいま」
千紗はちいさく、帰宅を告げる。
しかし、当然、反応はない。
いい匂いがする。
晩ごはんが出来ているようだ。
自然に、足が速くなり、そのままリビングに向かう。
「お母さん、ただいま」
いつもなら、優しい母・美雪がおかえり、と言ってくれる。
いつもなら、手を洗ってきなさい、と言ってくれる。
いつもなら、ご飯よ、と言ってくれる。
帰りが遅い日は、どうしたのと、怒ってくれる。
悩みがあると、どうしたのと、心配してくれる。
泣いて帰った日は、どうしたのと、一緒に泣いてくれる。
どうしたの。
いまどこにいるの。
どこにいるの。
◇
千紗。
◇
千紗は、眉間を押さえて、テーブルに蹲る美雪の頭から、そっと手を引き抜いた。
泣きたい気持ちだ。
自分は死んでいて、殺されていて。
触れることで人の考えが読めるようになってしまっているだなんて。
触れることは出来るのに、気付いてもらえないだなんて。
はああ。
美雪はため息を漏らした。
息が浅い。
緊張しているようだ。
ふと、手元のスマホ画面に目が留まる。
『おつかれ。もう終わったかな』
『大丈夫?』
『遅くなるなら、MINEしてね』
『音声通話 キャンセル』
『いまどこ?』
『誰かのおうちにいるの?』
『音声通話 キャンセル』
『音声通話 キャンセル』
『千紗、本当に大丈夫なの?』
『音声通話 キャンセル』
美雪は、眉間から手を離すと、思い立ったかのように、MINEで、何度目かの音声通話を発信する。
「千紗、出てよ……」
しかし、池に水没して着信は取れないことを。
しかし、娘は既に他界しており着信は取れないことを。
――音声通話 キャンセル。
母はまだ知る由もない。
「ただいまー」
父親の、宗一郎の声が玄関から聞こえた。
「宗ちゃん」
リビングに入ってきた夫に、美雪が告げる。
「千紗が帰ってこないの」
「あれ、バイトじゃないの」
「夏休みにとっくにやめてるわよ!」
はああ。
多忙さ故に家庭への関心が薄い宗一郎に、思いっきりため息を浴びせる。
「ごめんよ、そうだったね。……電話してみた?」
「もう何度も。既読もつかない」
もう少し、まってあげよう。
そう言うと、スーツを着替えに寝室へ入った。
ばんっ。
美雪がテーブルを叩いた。
千紗は、父親を見送ると、台所に向かった。
カレーだ。
お腹が減って、のどが渇いて苦しいのに、食べることも出来ないなんて。
お腹が減って、のどが渇いて苦しいけど、食べてあげることができないなんて。
「お母さん」
千紗は呼びながら、ダイニングテーブルの自分の席に着いた。
「お母さん。私、ここだよ。ここにいるよ。お母さん」
はああ。
美雪は、ため息とMINE発信を繰り返している。
「カレー、作ってくれたんだね。昨日言ったもんね、私。明日はカレーがいいって」
……。
「ごめんね、お母さん」
……。
「ごめん。――私」
音声通話 キャンセル。
「私。死んじゃったみたいなの」
◇
けれども。
この日から永遠に。
千紗の声は、美雪に届かなくなった。
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