【第一章.千紗が死んでから】
【第三話.思い出の水底】
こんこん。
ノックの音が聞こえて、千紗は『目を覚ました』。
「先生」
バイ菌ちゃんの声だ。
こんこんこん。
先生。
二度目のノックと、呼ぶ声。
もう、しょうがない、開けてあげようかなと思って、千紗は戸に手をかけるが、その後に聞こえた声に、手が止まる。
「うん」
背後から聞こえたのは先生の声だ。
「終わりましたか。先生」
「ちょっと待って」
先生が、千紗がイケメンだと思っている朝倉先生が。
マネキン(?)をとても大切そうに、とても愛おしそうに抱きしめている。
まるで百点満点のダンスを踊り終わったペアのように。
――絵になるなあ。
余りに現実味のない光景を前にすると、なんだか頭がぼんやりして、のほほんと、そんなことを考えてしまう。
だって、仕方ない。
イケメン異星人なんだから。
苦手だけど。
と。
(あれ?)
ここで初めて、千紗は今まで何をしていたのか覚えていないことに気がつく。
(私、なんでこんなところにいるんだろう)
周りを見回してみる。
黒い実験テーブル。
棚にはビーカーにフラスコ。
アルコールランプ。
(――理科室かな)
しかし、『なぜ』いるのかがわからない。
ふと壁を見る。
オレンジ色の光が化学式の書いてある黒板を朱に染めている。
『私はただ、先生の伝言を伝えただけ』
……そうだ。
千紗はハッとする。
そう、先生に呼ばれて、ここに来たのだ。
(なんのため?)
扉を開ける音に振り返ると、異星人先生がバイ菌ちゃんを理科室に招き入れている。
「終わりましたか」
「終わったよ」
依央は入り口から一歩入ったところで静止した。
何か、見ているようだ。
「バイ菌ちゃんじゃん。どしたの?」
おどけてみれば少しは気を引けるかと思ったけれど、依央は――バイ菌ちゃんの分際で――何故か千紗を見ない。
「あ、理科部の集まりかー! でも、梓も玲奈も帰っちゃったみたいよ? あっはっは、ウケるー」
それどころか、耳にすら入っていないようだ。
よく見ると、手が震えている。
握りしめる彼女の拳が、血が通わずに真っ白になるほどに、震えて。
「あのー? もしもーし」
目の前で手を振ってみて、依央の瞳に涙が零れそうなほどに湛えていることが目に留まる。
彼女はつかつかとまっすぐ理科室に入ると、朝倉先生の前に――。
行かずに、そのままマネキンの胴体に、思いっきり蹴りを見舞った。
が、制服姿の『それ』はそこそこ重量があるらしく、華奢な彼女の足を弾いた。
それでも、依央は蹴るのを止めない。
「このっ……このっ……このおっ!」
そんな彼女を、朝倉先生はにっこりと満足そうに見ている。
千紗は、目の前で何が起こっているかはわからない。
が、異常な光景であることは理解した。
「あんたなんて、あんたなんてっ」
「ってか、バイ菌ちゃん、涙目でなにしてんの。マジウケるんですけど。あんた」
「あんたなんて、生まれてこなければよかったんだよ! 千紗!」
……。
……はい?
千紗の思考が数秒停止する。
今、なぜ依央はマネキンにむかって自分の名前を叫んだのだろうか。
「あんた……何言ってるの」
「なにがバイ菌ちゃんよ! いじめられてる私の気持ちなんて、考えたことないくせに! あんたのほうが寄生虫だわっ! このっ……この! このぉっ!」
――そうか。
依央は、バイ菌ちゃんって、呼ばれるの、嫌だったんだ。
自分は、依央をいじめていたんだ――。
こんな時、なんて言うべきか。
こんな時、どうするべきか。
思案を巡らせる千紗が、何気なく足元の『マネキン』に視線を下ろしたとき。
ぞくっと背筋が凍りつく。
明るい茶髪のポニーテール。
青いヘアピンと青いヘアゴム。
血で真っ赤に塗れた、口元。
床に転がっているのは。
依央が蹴っているのは。
先生がにこにこして見つめているのは。
マネキンなどではなく。『鳴海千紗』そのものだった。
依央が叫ぶ。
「あんたなんて、殺されて当然だわっ」
◇
「気が済んだかい」
数分経ってから、朝倉先生が、息を切らす自分の生徒に問いかける。
「……はっ、はっ。……はい。……ありがとうございました。」
はは。
笑うときでも、異星人の目には光が灯らない。
「そいつは結構。……じゃあ、片付けに入ろうか」
白衣の彼はそう言うと、木製の椅子から立ち上がった。
「先生、私がお願いしたんだもの、お手伝い、したいです」
「そうかい? それじゃあ、これ、頼むよ」
朝倉先生は『千紗』のポケットからスマホを取り出した。
「あ、それ、私の……」
「これ、捨ててきて。近くに大きめの公園、あるでしょ。池があるの、わかるかな。そこに」
「わかります。……はい、行ってきます」
「ありがと。後はこちらで始末しておくから」
あ。
ちょっと。
千紗も、依央に付いていくことにした。
◇
「依央」
千紗は、いじめてきた相手の名を、呼んだ。
「依央。……ねえ、依央ったら」
そういえば、『バイ菌ちゃん』以外の呼び方をするのはずいぶんと久しぶりな気がする。
「……」
でも、依央は振り向かない。
千紗のことなんて、まるで見えていないかのよう。
いや、見えていないのだろう。
「ねえ、怒ってる? ねえ」
怒っているに決まっている。
それでも、聞かずにはいられない。
まるで母親を怒らせた後の子供のように。
「……」
依央は早足で歩いている。
学校を出て、しばらく並木道沿いに歩いて、小川が見えてくると左に曲がった。
川沿いに進むと、『中央公園』と書かれた公園の入り口を跨いで公園に入った。
テニスコートがある脇を通って、グラウンドの横に沿ってちょっと行くと、小さな雑木林になっていて、その真ん中に池があった。
澄んで落ち葉が下に積もっているのが見える。
千紗も、地元だからわかる。
鏡池と呼ばれる本当に小さな池だけど、湧水があって、確かさっきの川の水源になっていたはずだ。
『おかーさん、おかーさん、みてみて』
『あはは、ちさ、ずぶ濡れじゃない』
小さな頃、よく母・美雪に連れられて水遊びをした。
いま、その池の縁に依央は立っている。
手には千紗のスマホを握りしめて。
「ねえ、依央。お願い、それ、返して」
千紗は聞こえぬ声で、友――だと勝手に思っている少女に、お願いする。
「そのスマホ、私の宝物なの」
『そこ』には、お母さんからの、お父さんからの数え切れないMINEが入っている。
『それ』には、山口くんからの、中二の時もらった告白のMINEが消さずに残っている。
『その』スマホには、友達とのたくさんの思い出の写真が、お気に入りの曲が、大好きなマンガが。
「ねえ、おねがいよ」
「……」
ねえ。おねがい。
千紗の声は、しかし、空を切った。
依央は、憎いいじめっ子のリンゴのマークのついた白いスマートフォンを、目の前の池に投げた。
千紗の大切な端末は、液晶ディスプレイを上にして、十メートルほど先に着水。
水底の落ち葉の上でほんの少しだけ点滅した後、暗く光を喪った。
永遠に。
思い出と、ともに。
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