第26話 氷の令嬢の「避暑地計画」は、別荘の密室で包囲される
夏祭りの夜、花火の轟音に紛れて初めて口にした彼女の下の名前――「凛花さん」。
その一言は、神代凛花という「学園の絶対君主」の精神防衛システムに、修復不可能なレベルの特大のバックドアを穿ってしまったようだった。
あれ以来、彼女は僕の前に立つたびに、外面こそ鉄面皮を維持しているものの、目の奥の熱量が明らかに常軌を逸していた。僕が少しでも視線を合わせると、瞬時に耳の裏までを真紅に染め上げ、ガタガタと全身を震わせるようになってしまったのだ。
そして夏休みも中盤。うだるような都心の猛暑から僕を隔離するため、彼女が用意したのは――神代グループが軽井沢の最奥に保有する、広大な私有地の中の最高級クラシック別荘だった。
「……佐藤くん。都心のヒートアイランド現象は、貴方の貴重な脳細胞、および私の『専属管理対象』としての肉体的コンディションを著しく毀損(きそん)するわ。よって、これより夏休みが終了するまでの期間、貴方をこの標高一千メートルの完全隔離領域(別荘)へと強制移住(チェックイン)させるわ。反論は神代家の最高裁判所がすべて棄却したわよ」
深い森に囲まれた、重厚な総木造りのリビングルーム。
外の喧騒が一切届かない静寂の中、暖炉には形だけの薪がくべられ、大きなソファの並ぶ空間を、琥珀色の柔らかな光が満たしている。
神代さんは、お揃いの青いブレスレットが覗く手で、最高級のダージリンティーが注がれたウェッジウッドのカップをソーサーに戻した。今日の彼女は、清楚な白いサマードレス姿。風に揺れる薄い生地が、彼女の細いプロポーションをどこか儚げに、しかし暴力的なまでに美しく引き立てていた。
「神代さん、別荘を丸ごと貸し切りなんて、さすがに贅沢すぎるよ。……でも、今日のサマードレス、本当に綺麗だね。森の景色にすごく映えてる」
「……っ! 貴方、貴方って人は……っ! またそうやって、私の網膜(計算)を狂わせるような不敬な肉声(甘い言葉)を、平然と……っ!」
(((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 『凛花さん』って呼ばれてからの私のライフはもうマイナスよ!! 今日だって、彼に『凛花さん、サマードレス似合ってるね』って言われた瞬間のシミュレーションを百回は繰り返してきたのに、本物の彼の笑顔の前では、すべての防衛線(セキュリティ)がただの紙切れのように消滅してしまうわあああ!! 静か! この別荘、セバスたち使用人もすべて敷地外の別棟に隔離したから、本当に二人きりなのよ!! 二人きりの避暑地! 密室! 何が起きても誰も助けに来ない、完全なる新婚監禁パラダイス(※合法)よおおおおお!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))
使用人さんたちを全員別棟に追いやるあたり、彼女の「二人きり」に対する執念はもはや清々しいほどだった。
神代さんは真っ赤になった顔をドレスの広い袖で隠すように俯くと、ツンと冷徹な声を絞り出す。
「……勘違いしないで頂戴。これはあくまで、貴方の夏休みの課題の進捗(しんちょく)を、私が一歩も動けない状態で徹底監視するための、合理的な知的空間の提供よ。さあ、迅速に私の隣のソファへ着席しなさい。貴方が私から一メートル以上離れることは、神代家の安全保障条約(約束)に対する重大な宣戦布告とみなすわ」
「わかったよ。じゃあ、お茶をいただいたら、この前の続きのレポートをやろうかな」
僕が微笑みながら、彼女が座る大きな本革ソファの、すぐ隣のスペースへと腰を下ろす。
その瞬間、二人の距離は、お互いの肩と太ももが、衣服の薄い生地を挟んでぴったりと密着する「ゼロ距離」へと強制移行した。
衣服の薄い生地を挟んで、ぴったりと重なり合うお互いの肩と太もも。
外の深い森から聞こえるかすかな蝉時雨(せみしぐれ)以外、重厚な木造りのリビングには何の音も響かない。ただ、暖炉の薪がパチリと小さくはぜる音だけが、この密室の静寂をいっそう深いものにしていた。
神代さんは、僕が隣に腰掛けた瞬間から完全に呼吸を停止させていた。サマードレスの胸元が、彼女の激しい心拍数を物語るように細かく上下している。
「……さ、佐藤くん。貴方、いくら私が『隣へ着席しなさい』と言ったからといって、これほどの至近距離を維持するなど、神代家のパーソナルスペース規定(プロトコル)に対する重大な一線越えよ……っ! 私の肌の細胞が、貴方の体温を感知して、さっきから、その……異常発熱を起こしているわ……っ!」
「あはは、ごめんね。でも、神代さんが一メートル以上離れたら宣戦布告だって言うから……。こうして隣にいた方が、神代さんも安心でしょ?」
「――――――――――ッッッ!!!!」
僕が優しく微笑みながら、机の上に置かれた彼女の白い手に、自分からそっと右手を重ねる。
その瞬間、神代凛花という「絶対君主」の脳内で、軽井沢の全アクティブエリアを大停電させるほどの特大の「精神的メルトダウン」が引き起こされた。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((キエエエエエアルアアアアアアア!!! 『こうして隣にいた方が安心でしょ』!? これ、完全に私の所有欲(わがまま)をすべて見抜いた上で、慈悲深く私を飼い慣らそうとする、究極の包容力(マウント)じゃないのよおおおおお!!! 手! 彼の手が私の手を包み込んでいるわ!! 冷房が効いているはずなのに、彼の体温がサマードレスの奥深くまで溶け出して、私の心臓が、脳細胞が、ドロドロの甘い蜂蜜みたいに溶かされていくわよおおお!!! 好き! 大好き!! もうこのままソファごと私たちをコンクリートで固めて、この別荘の地下深くに永久保存しなさいよおおおおお!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
二人まとめてコンクリートで固められたら流石に命に関わるが、彼女の脳内絶叫の熱量は、避暑地の涼しい空気を完全に熱帯夜へと変貌させていた。
神代さんは真っ赤な顔のまま、持っていたウェッジウッドのカップをカタカタとソーサーの上で震わせ、ついに耐えきれなくなったように、僕の胸元へとバタリと頭を預けてきた。
白いサマードレスの柔らかな布地が、僕のシャツと擦れ合う。
アップにされた髪から、真夏の熱気でいっそう濃厚になった薔薇のアロマが立ち上り、僕の鼻腔を甘く麻痺させていく。
「……もう、どうにでもしなさい、佐藤くん。……いえ、『誠くん』……」
「……っ!?」
今度は、彼女の口から紡がれた、僕のファーストネーム。
蚊の鳴くような、掠れた、けれど最高に甘い声。
「……貴方が、私の世界をこれほど不条理に侵略(ハッキング)してくるのなら、私も貴方のすべてを、その名前も、未来も、この心臓の鼓動も、一秒たりとも他者に渡さないわ。……お揃いのこの宝石(サファイア)に誓って、貴方の人生の主導権は、永遠に私が買い占めたのだから……」
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ああ……言っちゃった、名前で呼んじゃったわ……! 誠くん、誠くん、誠くん……! 本当はレポートなんてどうでもいい、勉強なんて建前よ。ただ、この誰にも邪魔されない別荘の密室で、貴方と二人きり、こうして肌を重ねて、貴方の匂いに溺れていたかっただけなのよ……。貴方が私を優しく抱きしめるたびに、私の愛の檻は、もう世界のどんな法律でも壊せないほど強固になっていくわ。……覚悟しなさい、この避暑地から生きて帰れると思わないことね。夏休みが終わる頃には、貴方の身も心も、私の愛の重さで完全に監禁(新婚生活)してあげるんだからあああああ!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
彼女の脳内絶叫は、最後は掠れるような、狂おしいほどの愛の告白へと変わっていった。
僕の胸に額を押し付け、恥ずかしさに全身を小さく震わせている凛花さん。その外面の冷徹さを完全にかなぐり捨てた「重すぎる愛」の姿が、どうしようもなく愛おしかった。
僕は重ねていた右手にぎゅっと力を込め、空いている左手で、彼女の白いサマードレスで包まれた細い背中を、引き寄せるようにして優しく抱きしめた。
「……うん。僕の全部を、凛花さんに預けるよ」
「――――ッ、ひゃんっ!?」
僕の腕の中で、氷の令嬢の防壁は、完全に跡形もなく溶け崩れ、甘いメルトダウンの深淵へと沈んでいった。
窓の外、軽井沢の深い緑の向こうで、真夏の太陽がゆっくりと傾いていく。
けれど、僕たちを繋ぐ手首の青いサファイアは、琥珀色の暖炉の光を浴びて、この密室の中で、決して離れない永遠の契約のように、どこまでも深く、静かに輝き続けていた。
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学園一の嫌われ令嬢(実は超絶不器用)が、隣の席の俺にだけ「心の声」がダダ漏れな件について 宵月綴 @tsuzuri_y
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