第25話 氷の令嬢の「夏祭り」は、夜空の死角で包囲される
真夏のプライベートプールでの「水中ゼロ距離密着事件」を経て、神代さんの僕に対する独占欲は、もはや季節の熱気と相まって、一つの臨界点(メルトダウン)を迎えようとしていた。
僕の未来を予約し、移動空間を検閲し、看病という名の隔離を行い、水中でその素肌を密着させた彼女が、次に目をつけたのは――日本の夏の風物詩、すなわち「夏祭り」だった。
「……佐藤くん。本日、我が神代グループがスポンサーを務める『神代湾大花火大会』へ、貴方を特別招待(エスコート)してあげるわ。……ふん、勘違いしないで頂戴。一般の群衆(ノイズ)に揉まれながら、安っぽいソースの出店を練り歩くような、不衛生な真似を貴方に許可するわけがないでしょう」
夕方、再び黒塗りのリムジンで迎えに来た神代さんは、車内の革張りシートに腰掛け、いつもの扇子をパタパタと仰ぎながら僕を睨みつけてきた。
だが、その冷徹な言葉とは裏腹に、今日の彼女の姿は、僕の視界を完全にジャミングするほどの破壊力を秘めていた。
いつもは厳格にまとめられている黒髪が、うなじを見せるように艶やかにアップにされている。そして、藍色の生地に大輪の白い薔薇があしらわれた、息を呑むほど上品な高級浴衣を身にまとっていた。
「神代さん……浴衣、すごく綺麗だね。いつものドレスや制服も素敵だけど、その、言葉が出ないくらい似合ってるよ」
「……っ! だ、黙りなさい! この浴衣は、京都の人間国宝の染め職人に、貴方の視覚的感度を最も刺激する色彩を計算させて作らせた最高級品よ! 貴方がそんな、不敬なほどストレートな賛辞(甘い言葉)を口にすることなど、私の想定シミュレーション(防衛線)には含まれていないわ!」
(((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 直撃!! 直撃よ凛花!!! 『言葉が出ないくらい似合ってる』って言われたわ!!! 今日のために、三日前から姿勢矯正と歩行訓練をやり直して、うなじの産毛の一本に至るまで完璧に管理(プロデュース)した甲斐があったわよおおお!! 彼の甚平姿も信じられないくらい格好いいわ!! 今すぐこの車内の鍵をすべて遠隔ロックして、花火なんて無視してこのまま朝まで二人きりで密室(リムジン)に引き籠もりたいわあああああ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))
花火大会のスポンサーなのに花火を無視しようとするのは本末転倒だが、彼女の脳内はすでに、打ち上げ花火以上の熱量で爆発を繰り返していた。
神代さんは真っ赤な顔を扇子で隠しながら、ツンとそっぽを向いて冷徹な声を絞り出す。
「……行くわよ、佐藤くん。私が用意させたのは、会場の最も高い位置に設置された、神代家専用の特設プライベート観覧ブース(VIP席)よ。不特定多数の視線という名のバイオハザードから隔離された、私と貴方だけの『絶対不可侵領域』よ」
リムジンが到着したのは、会場を見下ろす小高い丘の頂上だった。
一般の観客は立ち入れないように周囲を頑強な黒服の警備員たちが包囲しており、その中央に、贅を尽くした特製の畳敷きテラスが用意されていた。
眼下には、無数の出店の灯りと、ひしめき合う人々の熱気が広がっている。
「……さあ、ここに座りなさい、佐藤くん。私の隣のスペースを空虚のまま放置することは、神代グループの土地活用として著しい損失よ」
彼女は優雅に畳の上に腰掛け、自身の浴衣の裾を少し整えると、空いている隣の特等席をポンポンと叩いた。
僕がそこに腰を下ろすと、自然と彼女の肩と僕の肩が、浴衣の薄い生地越しにぴったりと触れ合う。夜風が吹くたび、彼女のアップにされた髪から、真夏に咲き誇る薔薇の甘い香りが、密室ではないはずの夜空の空間をじわじわと支配していった。
その時、ドォォォォン!! という地響きのような大音量と共に、夜空に大輪の黄金の花火が弾けた。
鮮やかな光が、神代さんの横顔を琥珀色や紅色に染め上げていく。
「綺麗だね、神代さん」
「……ええ。神代グループの火薬技術が結集された、完璧な色彩計算(エンターテインメント)だわ。……でも、私の計算(プラン)は、これからが本番よ、佐藤くん」
神代さんは花火を見つめたまま、お揃いの青いサファイアのブレスレットがついた右手を、畳の上で僕の手に向けてゆっくりと滑らせてきた。その指先は、夜風の中でも信じられないほど熱く震えていた。
ドォォォォン!! ドォォォォン!!
夜空を震わせる連続の轟音とともに、紅色、翡翠色、サファイア色のきらめきが、僕たちの頭上で鮮烈に弾け飛ぶ。特設テラスを包む光と影の波が、隣に座る神代さんの横顔を、息を呑むほど妖艶に映し出していた。
畳の上をゆっくりと滑ってきた、彼女の熱く震える指先。
僕はそれを拒むことなく、自分から迎えに行くようにして、彼女の細い手を優しく、けれどしっかりと握りしめた。
「……っ!?」
神代さんはビクンと肩を大きく跳ね上げ、花火に向けられていた瞳を、弾かれたように僕へと転向させた。
暗闇の中でもはっきりと分かるほど、彼女の頬は浴衣の大輪の薔薇よりも深く、鮮やかな真紅に染まり上がっている。
「さ、佐藤くん……貴方、また私の許可なく、このような肉体的実力行使(ホールド)を……っ! これは神代グループの知的財産権に対する、重大な越権行為よ……っ!」
「だって、神代さんの手がすごく震えていたから。……それに、こうして手を繋いで見た方が、花火がもっと綺麗に見える気がするんだ」
「――――――――――ッッッ!!!!」
僕が繋いだ手に少しだけ力を込めながら見つめ返すと、神代さんの脳内で、眼下の花火大会の総火薬量を一瞬で上回るほどの特大の「超新星爆発」が巻き起こった。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ギエエエエエアルアアアアアアア!!! 『手を繋いで見た方が綺麗』!? これ、全宇宙の恋愛最高裁判所が満場一致で『完全なる恋人宣言』と採択する、歴史的プロポーズの文言じゃないのよおおおおお!!! 佐藤くんの、彼の甚平の袖から覗く手首が、私の右手と完璧に噛み合っているわ……!! 手のひらから彼の熱い体温がドクドクと流れ込んできて、私の論理的思考回路(知性)が、さっきから一ミクロンも起動しないのよおおお!!! 好き! 大好き! もうこの花火の光を永遠に停止させて、この暗闇のテラスで彼に私を骨ごと押し潰させなさいよおおおおお!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
彼女の脳内絶叫は、もはやお腹に響く花火の爆音すら完全に掻き消し、僕の頭蓋骨を直接甘く揺さぶっていた。
神代さんは真っ赤な顔のまま、繋がれた手を自分の胸元へと引き寄せるようにして、ぎゅっと両手で包み込んできた。浴衣の薄い生地越しに、彼女の激しすぎる心臓の鼓動が、僕の指先へとダイレクトに伝わってくる。
「……不遜よ、佐藤くん。……『綺麗に見える』だなんて、そんな情緒的な言葉で、私が懐柔されると思わないことね。……貴方のその右手も、左手も、私の網膜に映るすべての未来も……全部、私がこのサファイアの呪縛(ロック)で永久に管理してあげるんだから……」
彼女はついに耐えきれなくなったのか、うなじを見せたアップの頭を、僕の左肩へとコテンと深く預けてきた。
夜風に吹かれた彼女の髪から、切ないほどに甘い薔薇の香りが立ち上り、僕のシャツの胸元を優しく満たしていく。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((離さない、死んでも離さないわ佐藤くん……! 本当は花火なんてどうでもいい、お祭りなんてどうでもいいの……。ただ、この広い夜空の下、貴方という唯一無二の光を、私だけの腕の中に永遠に閉じ込めておきたいだけなのよ……。貴方が私にそんな優しい顔を向けるたびに、私の愛という名の檻が、どんどん強固に、どんどん重くなっていくのが分かるわ。……覚悟しなさい、この夏休みが終わる頃には、貴方の戸籍も私の隣に強制移住(新婚生活)させてあげるんだからあああ!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
戸籍の強制移住という、相変わらず法的制限を無視した脳内暴走を繰り広げる彼女だったが、僕の肩に触れる彼女の身体の小ささと、その健気なまでの執着が、どうしようもなく愛おしかった。
僕は空いている左手をそっと伸ばし、浴衣で包まれた彼女の細い肩を、引き寄せるようにして優しく抱きしめた。
「……うん。逃げないよ、凛花さん」
「――――ッ!?」
初めて口にした、彼女の下の名前。
神代さんは息を呑み、完全に僕の腕の中でふにゃふにゃに溶け崩れてしまった。
フィナーレを迎えた夜空に、数千発のきらめきが一斉に弾け、昼間のような光が僕たちを照らし出す。
けれど、僕たちを繋ぐ手首の青いサファイアは、そのどんな花火の輝きよりも強く、決して離れない永遠の絆のように、真夏の夜の特等席で静かに輝き続けていた。
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