第22話 氷の令嬢の「試験対策」は、図書館の密室で自爆する

調理実習での「デミグラスソース直撃事件」以来、神代さんの僕に対するパーソナルスペースは、実質的に「マイナス」の領域に固定されていた。

 かつては学園の絶対君主として畏怖されていた「氷の令嬢」の面影は、僕の隣にいる時に限っては完全に消失し、代わりに周囲の誰もが直視できないほどの濃厚な熱量(と脳内絶叫)を放つようになっていた。


だが、そんな甘いメルトダウンの日常にも、学生である以上、避けては通れない冷徹な現実が立ちはだかる。

 ――期末試験、である。


「……佐藤くん。本日から始まる試験勉強期間において、貴方の時間資源(タイムスケジュール)はすべて神代グループの知的財産管理下に置かれるわ。異議申し立ては国際裁判所でも受け付けないからそのつもりでいなさい」


放課後。大学の広大な中央図書館の最奥にある、普段は教職員や重要賓客しか立ち入れない特別研究室(という名の完全防音密室)。

 神代さんは重厚なマホガニーのデスクに、神代重工のシンクタンクが作成したという、僕の苦手科目を完璧に網羅した「特製対策問題集」をドン、と置いた。


大きな窓の外は、夕暮れの淡い群青色に染まり始めている。部屋の明かりは落とされ、デスクライトの琥珀色の光だけが、並んで座る僕たちの手元を狭く照らしていた。


「神代さん、特別室なんて借りなくても、普通の閲覧席でよかったのに……」


「……黙りなさい。一般の閲覧席など、他の雌(女子学生)の視線という名の視覚的ノイズが多すぎるわ。貴方の脳細胞が、私以外の情報を受信することを一秒たりとも許容できないのよ。さあ、迅速にこの数式を解きなさい。もし赤点なんて取ったら、貴方の大学を丸ごと買い取って、私の私塾に建て替えるから」


((((((((((((((((((((((((((((((((((キタアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 図書館の密室、放課後居残り勉強デート!! 狭い空間、一つのデスクライト、そして紙とインクの匂いに混ざる彼の体温!! 完璧よ! 完璧な布陣だわ凛花!! これで彼が『この問題、解けないんだけど……』と困った顔をした瞬間、私が後ろから覆い被さるようにしてペンを持ち、『こう解くのよ』と耳元で吐息を吹きかける『バックハグ指導法(※合法)』がいつでも執行可能なのよおおおおお!!)))))))))))))))))))))))))))))))))


バックハグ指導法が合法かどうかはさておき、彼女の狙いは最初から勉強よりも僕との物理的距離の完全破壊にあるようだった。

 ガタゴトと、ペンを走らせる音だけが静かな室内に響く。

 並んで座っているせいで、神代さんの細い肩が、僕の左肩にぴったりと触れ合っていた。彼女が息を吸うたびに、エプロンの時とは違う、少し大人びた香水の甘い香りが、密室の空気をじわじわと支配していく。


「……神代さん、この問題なんだけど」


「な、何かしらっ!? ついに私の頭脳(サポート)が必要になったのね! どこからでもかかってきなさい!」


「あ、いや。ここ、神代さんの解答の解説がすごく分かりやすくて、スラスラ解けちゃった。ありがとう、教えるの上手だね」


僕が問題集から顔を上げ、至近距離にある彼女の綺麗な瞳を真っ直ぐに見つめて微笑む。


「………………っっっ!!???」


その瞬間、神代さんのペンの動きが完全に凍結した。

 デスクライトの光に照らされた彼女の白い肌が、瞬く間に、耳の裏から首筋にかけて鮮やかな真紅へと染まっていく。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアア!!! 褒められた!!! 彼のあの、世界中のすべての不純物を浄化するような聖母のごとき笑顔で『ありがとう』って言われたわ!!! 違うの佐藤くん! 私は貴方に『分からないから教えて?』って情けない顔で頼られて、主導権(マウント)を握りたかったのに、どうしてそんな王子様みたいな包容力で私の心臓をハッキングしてくるのよおおお!!! 好き! 好きすぎて、この問題集の余白すべてに『佐藤誠・私のもの』って血判状を押してやりたいわあああああ!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


血判状だけは勘弁してほしいが、彼女の脳内システムは、僕の何気ない一言によってすでに限界容量(キャパシティ)を超えて熱暴走を始めていた。

 神代さんは真っ赤な顔のまま、ガタガタと震える手で参考書を胸元に抱きしめ、僕から視線をそらすようにして俯いた。


「ふ、ふん……当然よ。神代家の最高教育プログラムを修めた私が、この程度の初等数学(※大学の専門科目です)の解説を誤るわけがないわ。貴方はただ、私の知性の前に平伏して、その栄養をすべて脳内に吸収すればいいのよ……」


強固な外面を必死に取り繕おうとする彼女だったが、机の下で、お揃いの青いサファイアのブレスレットがついた彼女の右手が、僕のズボンの裾をぎゅっと掴んできていることに、本人は気づいているのだろうか。


机の下で、僕のズボンの裾をぎゅっと掴んでくる神代さんの小さな手。その指先は小刻みに震えていて、どれほど冷徹な言葉で武装しようとも、彼女の心臓が今、とんでもないテンポで早鐘を打っていることが手に取るように伝わってきた。


特別研究室の重厚な空気の中に、カチ、カチと時計の秒針の音だけが響く。夕暮れの群青色が窓の外を完全に支配し、デスクライトの琥珀色の光が、僕たちの輪郭をいっそう際立たせていた。


「……神代さん、そんなに強く掴んでたら、次のページがめくれないよ」


「……っっ!?」


僕がそっと視線を落として指摘すると、神代さんは弾かれたように顔を跳ね上げ、自らの指先を凝視した。そして、自分が無意識のうちに僕の衣服(テリトリー)を強固にホールドしていたという事実に気づき、本日何度目か分からない「沸騰」を迎えた。


「な、ななな……何を観察しているのよ貴方は……っ! これは、貴方が試験勉強に集中せず、不審な挙動(※私の顔を覗き込むこと)を見せないようにするための、肉体的な物理ロック(制動)よ! 浮気や慢心を防止するための正当な防衛措置なのだから……っ!」


「あはは、浮気なんてしないよ。ここに神代さんしかいないんだから」


「――――――――――ッッッ!!!!」


僕が困ったように笑いながら、机の下にそっと右手を伸ばし、僕の裾を掴んでいた彼女の手を包み込むようにして握る。

 その瞬間、神代凛花という「学園の絶対君主」の全回路は、ついに完全にショートした。


((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ト、ト、ト、ト、トカシタアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!! 机の下で手繋ぎ!!! これ、完全に『放課後の居残り特訓』の建皮(建前)を脱ぎ捨てた、ただの男女の密会(情事)じゃないのよおおおおお!!! 佐藤くんの手が、お、大きくて、骨張っていて、信じられないくらい温かいわ……!! 私の右手が、彼の支配下(ホールド)に完全に降伏(ギブアップ)している……っ! あああ、もう試験なんてどうでもいいわ! 今すぐ彼にこの特別研究室の全最高級ソファを使って私を押し倒させ、私の成績表のすべてを彼の名前で埋め尽くさせなさいよおおおおお!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


成績表を僕の名前で埋めたら彼女が留年してしまうが、そんな現実的な思考は、今の彼女の脳内(パニックエリア)には一ミリも残っていないようだった。

 神代さんは真っ赤な顔のまま、持っていたシャープペンシルをコロンと机の上に落とすと、握られた手を引き寄せるようにして、僕の左肩へとコテンと頭を預けてきた。長い黒髪が僕の鎖骨のあたりに散らばり、彼女の頭頂部から、薔薇のアロマが爆発的な熱量と共に立ち上る。


「……もう、貴方の勝ちでいいわよ、佐藤くん……」


「え……?」


「……私の、完璧な試験対策シミュレーションを、ただの一言で木っ端微塵に粉砕するなんて……。貴方は、神代グループが誇る対人防御システムにおける、最凶の脆弱性(バグ)だわ。……もう、私の頭脳(システム)は、貴方を独占すること以外の演算を拒否しているのだから……」


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((大好き……。本当は問題集なんてどうでもよくて、ただこの薄暗い密室で、貴方と二人きりで、こうして肌を触れ合わせていたかっただけなのよ……。佐藤くん、貴方の温もりが私の細胞に染み渡るたびに、私の『重すぎる愛』が、どんどん貴方を底なしの沼に沈めていくのが分かるわ。……覚悟しなさい。この試験が終わったら、夏休みは神代家の私有島(プライベートアイランド)ごと買い占めて、二人きりで永久に隔離された『愛の夏合宿』を執行してあげるんだからあああああ!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


私有島はもともと神代家のものだろうに「買い占める」と言ってしまうあたり、彼女の理性のメルトダウンっぷりが伺える。

 けれど、僕の肩に預けられた彼女の頭が、どこか安心したように、すとんと落ち着くのを感じて、僕の胸の奥もどうしようもなく甘い熱で満たされていった。


お揃いの青いサファイアのブレスレットが、デスクライトの琥珀色の光を浴びて、机の下でカチリと微かな音を立てて触れ合う。それは、どれほど広大な図書館の暗闇であっても、僕たちの繋がれた領域(サンクチュアリ)を決して引き離さないという、絶対的な契約の証明だった。


「……神代さん。島流し(夏合宿)は勘弁してほしいけど、試験、一緒に頑張ろうね」


「……ふん。……当然よ。……私のパートナーが、最高評価(秀)以外を取得することなど、私のプライドが許さないわ……」


耳元で囁かれる、震えるような、けれど最高に甘い「絶対命令」。

 窓の外に広がる、無数の星がまたたき始めた夜空の向こうで、氷の令嬢のプライドは、僕の手のひらの熱によって、どこまでも甘く、深く、溶け落ちていくのだった。

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