第21話 氷の令嬢の「家庭科実習」は、甘すぎる調理室で炎上する

満員電車での「サンクチュアリ事件」以降、神代さんの僕に対する独占欲は、もはや周囲に隠すことすら放棄したかのようなフェーズに突入していた。

 学内での彼女は、僕の姿を視界に捉えるたびにツカツカと歩み寄り、当然のように僕の左腕を自らのテリトリー(胸元)へと収める。周囲の学生たちも、もはや驚く段階を通り越し、「神代家直轄領の日常」として微笑ましく見守るようになっていた。


そんなある日、僕たちの通う大学の共通講義で、突如として「調理実習」が執り行われることになった。

 エプロン姿という、普段の厳格な令嬢スタイルからは想像もつかないほど家庭的な格好をした神代さんは、調理室の隅で、一本の包丁を手にしながら絶対零度の眼差しを刃先に走らせていた。


「……佐藤くん。本日の実習課題は『ハンバーグステーキ』の調理とのことね。……ふん、至極単純な家庭料理だわ。しかし、神代グループの食品開発部門から取り寄せた最高機密データによれば、肉の捏ね(こね)具合、および火加減のわずか数パーセントの狂いが、摂取する人間の幸福度(脳内分泌物質)を著しく左右すると報告されているわ。……よって、本日の調理は私が一から十まで完全に統制(コントロール)させてもらうわよ」


「あはは、神代さん、包丁の持ち方がちょっと怖いよ……。でも、エプロン姿、すごく似合ってるね。なんだか、その……新鮮で可愛いよ」


僕がいつものように正直な感想を述べると、神代さんの動きがピキリと停止した。

 彼女は慌てて包丁をまな板の上に置くと、エプロンの裾をぎゅっと掴み、隠しきれない耳の後ろまでを瞬時に鮮やかなバラ色へと染め上げていく。


((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 可愛いって言った! 彼、私のエプロン姿を『可愛い』と公式に認定したわ!! このエプロン、神代家御用達の老舗テーラーに、彼の網膜を最も刺激する黄金比率のギャザーを三日三晩かけて計算させて特注した甲斐があったわ!! 今すぐこの瞬間の彼の声を高音質マルチトラックで録音して、神代重工が開発中の新世代AIの標準音声に採用して二十四時間私の耳元で囁かせ続けたいわああああ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))


僕の声をAIの標準音声にするのは、流石に国家的なプライバシー侵害に該当するのではないだろうか。

 神代さんは小さく咳払いをすると、真っ赤な顔のまま、ひき肉の入ったボウルを僕の前に突き出してきた。


「……勘違いしないで。私がエプロンを着用しているのは、調理過程における繊維片の混入を防ぐための衛生管理(プロトコル)の一環よ。……さあ、佐藤くん。貴方は私の指示通りに、その肉を捏ねなさい。ただし、私の視界から一歩でも外れるような真似をしたら、この調理室の全ガス元栓を遠隔操作で遮断して、貴方の調理権を永久に剥奪するから覚悟しなさい」


「わかったよ。じゃあ、まずは玉ねぎのみじん切りから始めようか」


「……許可するわ。……ただし、包丁を使用する際は、私の指先から常に半径五センチ以内の『安全領域(セーフティゾーン)』を維持すること。他の雌(女子学生)に調味料を借りに行くような不穏な動きを見せたら、即座に我が家の私設警備隊がその調味料ごと相手を強制排除するわ」


(((((((((((((((((((((((((((((((((((いよいよよ!! 調理実習という名の、佐藤くん完全囲い込み作戦!! 今日の私は、彼の胃袋だけでなく、共働(新婚)のシミュレーションを完璧に遂行しなければならないの!! 彼の視界に入るすべての食材、すべての器具、そしてすべての空間は、私という存在によってのみ統治されるべきよ!! 佐藤くん、私のこの、包丁を握る手から伝わる緊迫感(※ただの照れ隠し)を、全身の感覚器官で受信しなさいよおおお!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


新婚のシミュレーションにしては殺気が強すぎる気がするが、彼女の捏ねる力(なぜか僕の手の上から重ねて捏ねている)は、その決意を反映するようにどんどん強くなっていく。


実習室の中は、他の班の賑やかな声で溢れていた。

 ふと、隣の班の女子学生が「佐藤くん、そっちの塩コショウ使い終わったら貸してー?」と声をかけてきた。


その瞬間、神代さんの背後から、目視できるレベルの漆黒のオーラ(独占欲)が立ち上り、調理室の室温が文字通り一気に氷点下へと急降下した。


隣の班の女子学生からの、ごくありふれた調味料の貸し出し要求。しかし、神代凛花という「絶対君主」にとって、それは自身の絶対防衛圏(佐藤誠)に対する、宣戦布告なき不法侵入に他ならなかった。


彼女はひき肉を捏ねていた手をピタリと止めると、ロボットのような正確さで首を横へと回し、声をかけてきた女子学生をギロリと睨みつけた。その瞳は、神代グループの競合他社を慈悲なく買収する際に見せる、あの氷の輝きそのものだった。


「……却下よ。この塩コショウは、現在、佐藤くんの造血機能および筋肉組織の代謝を最適化するために、神代家の極秘配合比率(ブレンド)に基づいて厳密に使用されている最中よ。一滴たりとも他者への流出は認められないわ。……セバス、今すぐこの調理室に存在するすべての塩コショウの流通経路を買い占めなさい」


「神代さん、セバスチャンさんは今日、外のリムジンで待機してるからいないよ! それに塩コショウくらい普通に貸してあげようよ!」


「黙りなさい、佐藤くん! これは我が家の領土(貴方の胃袋)に対する、重大な安全保障上の危機よ!」


((((((((((((((((((((((((((((((((((((ムリムリムリ!!! 他の女が佐藤くんに話しかけた!!! しかも『使い終わったら』なんて、まるで私たちが使い終わるのを待って、その後に佐藤くんとの繋がり(※ただの調味料の貸し借りです)を持とうとするなんて不埒千万よ!!! 佐藤くんの網膜に映っていい雌は私だけで十分なのよ!! 塩!? コショウ!? そんなもの、今すぐ神代重工の特製プレス機でダイヤモンドに変えて、彼の薬指に埋め込んでやるわあああああ!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))


調味料をダイヤモンドに変える錬金術は物理的に不可能だし、薬指に埋め込まれたら僕の手が大変なことになってしまう。

 僕は慌てて神代さんの手から塩コショウのボトルをそっと回収すると、隣の班の女子学生に「あ、すぐ使い終わるから待ってね!」と苦笑いしながら声をかけ、急いでハンバーグのタネに調味料を振り振りと振りかけた。


「ほら、神代さん、これで使い終わったから大丈夫だよ。……それより、早くハンバーグを焼こう? 神代さんと一緒に焼いたハンバーグ、僕、すごく楽しみなんだ」


「………………っっっ!!???」


本日一番の直撃。神代さんは、今度は顔だけでなくエプロンで隠れていない全身の皮膚が真っ赤に染まるのではないかというほどの勢いで硬直した。彼女の手から力が抜け、ボウルが危うくひっくり返りそうになる。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((シンジャウ……!! 幸せの過剰摂取(オーバードーズ)で、私の全神経システムが神代グループの株価と共に天井を突き抜けるわ!!! 『一緒に焼いたハンバーグが楽しみ』!? これって、新婚の初日の夜に、エプロン姿の妻に向かって夫が『君の手料理が待ち遠しいよ』ってハグしながら耳元で囁く、あの王道の愛の営み(※ただの調理実習です)そのものじゃないのよおおおおお!!! 佐藤くん、貴方は劇薬よ!! 私の鉄の防衛ラインを、ただの一言で跡形もなく蒸発させる超高熱のレーザーなのよおおおおお!!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


彼女の脳内絶叫は、調理室の換気扇の稼働音を完全に掻き消し、僕の鼓膜に心地よい(そして重すぎる)振動を与え続けた。

 神代さんは真っ赤な顔のまま、震える手でフライパンに火をつけ、成形したハンバーグのタネを恐る恐る滑り込ませた。ジュワァァァ、と肉の焼ける香ばしい音が室内に広がる。


「……ふ、ふん。……当然よ。私の、この……神代家の英知を結集した火加減の前に、ひき肉ごときが屈服するのは自明の理だわ。……さあ、佐藤くん。貴方は黙って、私が完成させる『究極の独占(ハンバーグ)』をその胃袋に収める準備をしなさい」


「うん、ありがとう。あ、神代さん、ちょっと頬にソースがついてるよ」


「え……?」


僕が自然に手を伸ばし、彼女の柔らかい頬に小さくついていたデミグラスソースの点を、指先でそっと拭う。

 その瞬間、神代凛花という「氷の令嬢」の全機能が、ついに修復不可能なレベルで完全停止(フリーズ)した。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ト、ト、ト、トカシタアアアアアアアアアア!!! 頬への直接接触(タッチ)!!! 指先!! 佐藤くんの指の温かさが、私の皮膚細胞を通じてダイレクトに脳幹を直撃したわ!!! これ、もう実質的に調理室の真ん中で深めの口づけ(※指で拭っただけです)を交わしたのと同じ破壊力よ!!! あああ、もうこのフライパンごと、私たちの愛の熱量で世界を包み込みなさいよおおおおお!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


彼女はそのまま「ふにゃ……」と力のない声を漏らすと、僕の胸元へと倒れ込むようにして額を預けてきた。エプロンの紐が僕の衣服と擦れ合い、お互いの青いブレスレットが、カチリと調理室の喧騒の中で静かに共鳴する。


「……もう、どうにでもしなさい、佐藤くん……。貴方の前では、私の完璧な管理体制(セキュリティ)なんて、ただの砂の城と同じだわ……」


耳元で囁かれる、消え入りそうな、けれど最高に甘い「敗北宣言」。

 じわじわと焼き上がるハンバーグの煙の向こうで、氷の令嬢のプライドは、僕という名の熱によって、完全に甘いメルトダウンを起こしていた。

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