第20話 氷の令嬢の「外堀埋め」は、満員電車の密室で加速する
ロイヤルスイートルームでの「事実上の婚約(※彼女の脳内における永住登記)」を経て、神代さんの僕に対する独占欲は、もはや一つの完成された『天災』の域に達していた。
僕の未来を自らの手で予約したことに味を占めた彼女は、次の段階として、僕の「移動空間」すらも神代グループの租界地へと変貌させようと画策し始めたのである。
「……佐藤くん。毎朝、貴方が利用しているあの『満員電車』という名の、家畜の移動用コンテナのような乗り物について、神代グループの危機管理部門から深刻なセキュリティレポートが提出されたわ。……はっきり言って、論外よ」
ある日の登校時、いつものように校門の手前で僕を待ち伏せていた神代さんは、扇子でトントンと自身の二の腕を叩きながら、絶対零度の眼差しで僕を睨みつけてきた。
「……不特定多数の人間が、貴方の衣服、ひいては肌に物理的に接触する可能性があるなど、神代家の資産保全の観点からして一秒たりとも容認できないわ。よって、明日からは私が用意した最高級の防弾リムジンで、毎朝ベッドから校門まで直行で送迎してあげるわ。もちろん、拒否権は万死に値するわよ」
「いやいや、神代さん。さすがに毎朝リムジンで大学に通うのは目立ちすぎるよ。普通の学生なんだから、普通に電車で通わせてほしいな」
「……『普通』? 貴方はまだ理解していないようね。貴方が私の隣にいると決めたその瞬間から、貴方の『普通』は神代グループの最高機密によって上書き保存されたのよ」
((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 無理! 正直に言うわ、リムジンなんて建前よ!! 本当の目的は、毎朝あの狭い後部座席の密室で、佐藤くんの寝起きの無防備な顔を独占したいだけなのよおおお!! あわよくば、車の揺れを利用して彼の肩に私の頭を預けたり、彼の手を握ったまま朝の渋滞を永遠に楽しみたいの!! なのに何よ! 電車!? あんな他の雌(メス)がうようよしている伏魔殿に、私の佐藤くんを放り込めるわけがないでしょうがああああ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))
脳内での本音が「ただ一緒に登校したい」という純粋な乙女心と、狂気的な所有欲のブレンドになっていて、聴いているこちらの心臓が持ちそうにない。
神代さんは不満げに頬を膨らませると(外面は冷徹な鉄面皮のままだが)、ふん、と鼻を鳴らした。
「……いいわ。そこまで言うなら、本日の一斉下校の時刻に、私が直々にその『満員電車』とやらを視察してあげるわ。我が家の基準に適合するかどうか、私の網膜で直接検閲してあげるから覚悟しなさい」
というわけで、夕方のラッシュ時。
僕と神代さんは、学園の最寄り駅のホームに立っていた。もちろん、彼女の私服姿は相変わらず周囲の乗客の視線を釘付けにしていたが、本人はそんな周囲のノイズなど一瞥もせず、僕の左腕をライオンの顎並みの力でがっちりとホールドしていた。
やがて、けたたましい警告音と共に、乗客でパンパンに膨れ上がった通勤快速列車がホームに滑り込んでくる。ドアが開いた瞬間、中から押し寄せる熱気と圧迫感に、神代さんは「……っ!?」と小さく息を呑んだ。
「神代さん、結構混んでるよ。本当に乗るの?」
「……フン、私を誰だと思っているの。神代家の人間が、この程度の群衆(ノイズ)に怯むわけがないわ。……行くわよ、佐藤くん」
彼女は気丈に言い放ち、僕の腕を引いて車両の中へと足を踏み入れた。
だが、それが彼女にとっての「想定外の狂宴」の始まりだった。
直後、ドッと後ろのドアから駆け込み乗車の人波が押し寄せてくる。
狭い車内、文字通り身動きが取れないほどの圧迫。その瞬間、僕は反射的に、自分の目の前にいた神代さんを庇うように、彼女の背後の手すりに両手を突いた。
結果として、僕の身体が神代さんを完全に壁際へと押し込むような、完璧な「壁ドン」の体勢が完成してしまったのだ。
ガタゴトと激しく揺れる電車。至近距離。
神代さんの綺麗な瞳が、僕の胸元のすぐ目の前で、これ以上ないほど丸く見開かれていた。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((キ、キ、キ、キ、キタアアアアアアアアアアアアア!!! 満員電車の密室、ゼロ距離密着!! 佐藤くんの、佐藤くんの分厚い胸板が私の胸元に直撃しているわあああ!! 近い! 呼吸ができない! 彼のシャツから、私が毎晩スマートフォンで遠隔管理しているあの空気清浄機の匂いがするわ!! 電車最高!! 満員電車最高よ!! 今すぐこの車両の全乗客に神代グループから特別ボーナスを支給して、このまま終着駅まで私を押し潰し続けなさいよおおおおお!!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
あまりの衝撃に、彼女の脳内絶叫はもはや全宇宙の通信衛星をジャミングするほどの狂気的な歓喜へと達していた。
僕の腕の中で、神代凛花という「氷の令嬢」の防壁は、満員電車の凄まじい圧力(と僕の体温)によって、跡形もなく溶け崩れようとしていた。
電車の走行音が、ガタゴトと規則正しく狭い車内に響き渡る。けれど、僕の腕の中に閉じ込められた神代さんにとっては、その大音量の騒音さえも、完全に別世界の出来事のように感じられているに違いない。
僕が背後の手すりを掴んで作った、わずかながらのパーソナルスペース。そこは文字通り、周囲の混雑から彼女を隔離する「二人のためのサンクチュアリ」と化していた。
電車のカーブに合わせて車両が大きく傾くたび、彼女の柔らかい身体が僕の胸元へと押し付けられ、お互いの体温が布地越しにダイレクトに伝わってくる。
「か、神代さん……大丈夫? ちょっと、近すぎるよね。苦しくない?」
僕が顔を少し下げて耳元で囁くと、神代さんは「ひゃぅっ!?」と、普段の彼女からは想像もつかないような可愛い悲鳴を喉の奥で漏らした。
彼女は慌てて僕の胸元に両手を添えて押し返そうとしたが、その指先は力なく震えており、むしろ僕のシャツをぎゅっと掴むような形になってしまっている。見上げる彼女の顔は、電車の赤い尾灯に照らされたわけでもないのに、耳の裏から首筋、鎖骨のあたりまでが完全に沸騰したように真っ赤に染まっていた。
「ぬ、不敬よ……佐藤くん、貴方、これほど大胆な肉体的実力行使(ホールド)を私に仕掛けてくるなんて……っ! これは、神代家の防衛ガイドラインにおける『レベル5(国家非常事態)』に相当するわよ……っ!」
「いや、でも、手を離したら神代さんが他の人に押し潰されちゃうから……。次の駅に着くまでは、このままで我慢して」
「が、我慢なんて……っ! 私が、この程度の軟禁状態で精神的苦痛を感じるわけがないでしょう……! むしろ、貴方のその……心臓の音がうるさすぎて、私の論理的思考回路が、さっきから、その……完全に機能停止しているのよ!」
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((キエエエエエアルアアアアアアア!!! 『このままで我慢して』!? これ、実質的に『僕の腕の中でじっとしていて』っていう、完全なる独占宣言じゃないのよおおおおお!!! 心臓! 佐藤くんの心臓の鼓動が、私の手のひらから直接ドクドクと伝わってくるわ!! 早い、彼の鼓動も早いわ!! これってもしかして、佐藤くんも私に押し潰されて理性を失いかけているの!? あああ、幸せすぎて、このまま電車ごと神代グループの地下秘密基地へ直行して、二人だけの終着駅(エデン)に永住したいわあああああ!!!))))))))))))))))))))))))))))頑強な理性を誇るはずの私が、ただの公共交通機関の中で、彼の引力に跡形もなく引きずり回されているわ!!)))))
彼女の脳内絶買いの音量は、もはや通勤快速のモーター音を遥かに凌駕する爆音となり、僕の頭蓋骨を直接揺さぶっていた。手のひらから伝わる彼女の心拍数も、もはや限界数値を叩き出している。
ふと、彼女の手元に視線を落とすと、僕があの日贈った、あるいは彼女が僕の左手にはめた、お揃いの青いサファイアのブレスレットが、車内の蛍光灯を反射して静かにきらめいていた。
満員電車という無秩序な空間の中で、その一対の宝石だけが、僕たちの繋がれた関係性を強く主張している。
「……神代さん」
「な、何かしら……っ! これ以上の口頭による精神攻撃(甘い言葉)は、神代家の法務部門が黙っていないわよ!」
「……ブレスレット、ちゃんと毎日つけてくれてるんだね」
僕が微笑みながらそう言うと、神代さんは一瞬だけ言葉を失い、それから僕の胸にコテンと額を預けるようにして、完全に脱力してしまった。彼女の長い睫毛が、僕のシャツのボタンに触れるほどの距離。彼女が小さく息を吐き出すたびに、甘い薔薇の香りが僕の鼻腔をくすぐる。
「……当然でしょう。……私が、貴方との『契約の印』を外すわけがないわ。……貴方の左手も、私の右手も、もうお互いの重力から逃れられないように、私がこの宝石で呪縛(ロック)したのだから……」
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ああ……もうダメ、私のライフは完全にゼロよ……。佐藤くん、貴方はどうして、そんなに優しく私のすべてを肯定するの? 満員電車なんて大嫌いだったのに、貴方の腕の中にいる今この瞬間は、私の人生の中で一番甘くて、一番重苦しくて、一番手放したくない時間だわ。……覚悟しなさい、佐藤くん。明日からは、この車両ごと神代グループが買い占めて、毎朝私と貴方だけの『貸切満員電車(※矛盾)』として運行させてあげるんだからあああああ!!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
車両の買い占めという斜め上の発想に苦笑しつつも、僕は彼女の細い背中に、周囲の乗客から守るようにして、そっと右手を添えた。
キィィィィン、とブレーキの音が響き、電車が次の駅へと滑り込んでいく。ドアが開くと同時に、僕たちは押し出されるようにしてホームへと降り立った。
夕方の爽やかな風が、火照った僕たちの頬を優しく撫でていく。
神代さんは大慌てで髪と衣服を整え、いつもの「氷の令嬢」の鉄面皮を取り戻そうと必死になっていたが、僕と繋いだままの右手だけは、最後まで決して離そうとはしなかった。
「……ふん。満員電車の実態は十分に検閲したわ。……結論として、防犯上、非常に有意義な密着空間であると認定せざるを得ないわね。……明日からも、時々はこの『家畜コンテナ』に付き合ってあげてもいいわよ、佐藤くん」
「あはは、ありがとう。じゃあ、明日もまた、ここで」
「……ええ。遅刻は許さないわよ」
彼女は翻るスカートと共に、迎えのリムジンが待つロータリーへと歩き出した。
僕たちの距離を隔てる防壁は、もうどこにも存在しなかった。ただ、彼女の放つ「重すぎる愛の包囲網」が、夕暮れの街全体を心地よく縛り付けているのを、僕はいつまでも感じていた。
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