第18話 氷の令嬢の「危機管理」は、暗がりの空間で密着する
神代さんによる「佐藤誠・完全包囲網」は、ついに僕の六畳一間のアパートにまで到達し、我が家は実質的に神代グループの租界地(そかいち)と化していた。エジプト綿のシーツに包まれて眠り、彼女の息吹(空気清浄機)を吸い、夜は特製圧力鍋で作ったスープを飲む。
もはや僕の生活から「神代凛花」の要素を排除することなど、地球から重力をなくすくらい不可能な領域に達していた。
そんなある日の放課後、僕たちはいつものように神代さんの思いつき――もとい、「市場調査」の一環として、新しく駅前にできた大型アミューズメント施設を訪れていた。
「……ふん。これが今時の庶民が群がる娯楽の殿堂ね。騒音と安っぽい電飾に満ちていて、私の高貴な感性が著しく汚染されそうだわ。……佐藤くん、私の手を離さないことね。迷子になって神代家の資産が行方不明にでもなったら、この施設の運営会社を丸ごと買収して解体するようセバスに命じるから」
「あはは、迷子にはならないよ。でも、せっかく来たんだし、何かやってみようよ」
不機嫌そうに扇子をパタパタと仰ぐ神代さんだったが、その右手は僕のシャツの袖を、それこそライオンの顎(あご)並みの力でぎゅっと掴んで離さなかった。
(((((((((((((((((((((((((((((((((キタアアアアアアアアアアア!! 放課後ゲームセンターデート!! 騒がしい空間、薄暗い照明、そして至る所に潜む不良(※ただの一般客)の影!! これは私が『怖がって彼の腕にしがみつく』か、あるいは『絡まれた彼を私が神代家の権力で救い出して惚れ直させる』かの二択しか存在しない、神が与え給うた最高のシチュエーションよ!! 佐藤くん、早く! 早く私をエスコートして、あの薄暗い『プリントシール機』の密室へ私を誘い込みなさいいいいい!!))))))))))))))))))))))))))))))))
プリントシール機に行きたいなら素直にそう言えばいいのに。
僕は彼女の猛烈な脳内リクエストを察知し、あえてそのエリアへ足を向けてみた。しかし、僕たちがたどり着いたのは、プリントシール機ではなく、その隣に設置された、巨大なボックス型の「体感型ホラーシューティングゲーム」の筐体だった。
「あ、これ。最近ネットで話題になってるゾンビゲームだ。神代さん、これ一緒にやってみない?」
「……ぞ、ゾンビ……? ふ、不潔ね。そのような医学的根拠のない動く死体など、私の合理主義の対極にある存在だわ。……まあ、貴方がどうしてもと言うなら、私の卓越したエイミング能力で駆除してあげてもいいけれど」
神代さんは一瞬だけビクリと肩を震わせたが、すぐに外面の冷徹さを取り戻し、ツカツカと筐体の中へ入っていった。
ボックスの遮光カーテンが閉まり、僕たちは狭いシートに並んで座る。外の喧騒が遮断され、一瞬にして二人きりの密室が完成した。スクリーンが怪しく光り、スピーカーから重低音の不気味なBGMが流れ始める。
「じゃあ、コインを入れるね」
「……ええ。迅速に始めなさい。私の時間を一秒たりとも無駄に――」
ドンッ!!!
ゲームが始まった瞬間、大音量と共に画面いっぱいにリアルなゾンビが飛び出してきた。同時に、シートが激しく振動する。
「ひゃうああっっっ!!!???」
神代さんはおよそ令嬢とは思えない短い悲鳴を上げると、持っていたコントローラーを放り出し、目をつぶって僕の左腕に全力で抱きついてきた。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((むりむりむりむりむりむり!!! 死んじゃう!! 画面がリアルすぎるし音が大きすぎるわよ!! でも、でも……!! 佐藤くんの腕が、佐藤くんの硬くて温かい腕が、私の胸元に直撃しているわあああああ!! 近い! 密着! 暗闇! ゾンビには感謝するけど今すぐこの画面の電源を引きちぎって、この暗闇の中で彼に私を強く抱きしめさせなさいよおおおおお!!))))))))))))))))))))))))))))))))))
あまりの恐怖と興奮で、彼女の脳内絶叫はもはやバグったスピーカーのように激しくハウリングを起こしていた。
僕の左腕には、彼女の柔らかい体温と、驚くほど激しく波打つ心臓の鼓動が、ダイレクトに伝わってきていた。
遮光カーテンに阻まれた薄暗い筐体の中、ゲームの画面からは容赦なくゾンビたちの呻き声と銃声が鳴り響いている。けれど、僕の意識はすでにその大音量のサラウンドを完全にシャットアウトしていた。
左腕にかかる、信じられないほどの重力と柔らかさ。
神代さんは僕の二の腕を両腕でぎゅっと抱え込み、小さな頭を僕の肩口にすっぽりと埋めるようにして、ぶるぶると小刻みに震えている。
「か、神代さん……? ゲーム、進めないとゾンビにやられちゃうよ?」
「う、うるさいわね……! 私は今、高度な戦術的撤退(パニック)を選択しているだけよ……っ! 貴方が、そんな……まがまがしい娯楽に私を誘い込むから……! あ、あの画面の不浄な怪物を、今すぐ神代グループの法務部門に訴えて、著作権侵害で差し止めにしてやりたいわ……っ!」
無茶苦茶な言い訳を口にしながらも、彼女は絶対に目を開けようとしない。
それどころか、ゲームの演出で再びシートがガタガタと大きく揺れた瞬間、「ひゃんっ!」と小さな悲鳴を上げて、さらに深く僕の身体へと密着してきた。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアア!! もうゾンビなんてどうでもいいわ!! 怖い! 怖いけど、それ以上に脳内が佐藤くんの成分で飽和して卒倒しそうだわ!! 彼のシャツから、私が一昨日敷き詰めさせたエジプト綿のシーツと、我が家の薔薇の香りがする……!! 私の愛の包囲網(フレグランス)が、今、逆流して私自身を絞め殺そうとしているのよおおお!! 佐藤くん、お願い、その空いている右手で私の腰を抱き寄せて、『僕が君を守るから』ってあの執事映画のヒーローみたいに囁いてえええええ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))
自分の仕掛けた香りに自分で溺れている神代さんの絶叫が、至近距離の脳内に爆音で響き渡る。
けれど、僕にしがみつく彼女の手が本当に冷たくなっていて、恐怖で心臓が早鐘のように打っているのが伝わってきた。さすがに可哀想になって、僕は右手のコントローラーを置くと、その手で彼女の細い肩をそっと抱き寄せた。
「……大丈夫だよ、神代さん。僕がここにいるから。もう目を開けなくていいよ」
「………………っっっ!!???」
僕が肩に手を回した瞬間、神代さんの身体がビクンと跳ね上がり、そのまま電気ショックを受けたように硬直した。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ト、ト、ト、ト、トカシタアアアアアアアアアア!! 肩!! 抱き寄せられた!! 彼の右手が、私のガードを紙切れのように引きちぎって、ダイレクトに私の領域(パーソナルスペース)を完全侵略(ホールド)したわ!! 神代凛花、十七年の生涯において最大の国家的危機、いえ、最大の幸福的臨界点よ!! ああああ、佐藤くんの匂い、佐藤くんの体温、佐藤くんの包容力……!! もうこのままゲームセンターごと買い取って、この筐体を私の永久隔離病棟(新婚部屋)にしなさいよおおおおお!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
ゲームオーバーの無機質なBGMが流れ、画面が暗転する。
けれど、僕たちは暗闇の中で、しばらくの間そのままの姿勢で固まっていた。彼女の顔が、僕の胸元に押し当てられたまま、信じられないほどの熱を発している。
やがて、ゆっくりと筐体のカーテンを開けると、外の明るい光が差し込んできた。
神代さんはハッと我に返ると、弾かれたように僕から離れ、乱れた髪を大慌てで整え始めた。その顔は、ゾンビよりもよほど赤く、耳の裏まで完全に沸騰している。
「……ふ、ふん。……当然の危機管理能力ね、佐藤くん。不測の事態において、私を肉体的に保護するのは貴方の最低限の義務よ。今日の貴方の臨機応変な盾としての振る舞い、神代家の評価点として『プラス三分』してあげるわ」
「三分だけなんだ。……でも、神代さんが無事でよかったよ」
「……黙りなさい。……もう帰るわよ。この施設の空気は、私の心肺機能に多大な影響(※キュン死寸前)を及ぼすわ。セバスに連絡して、今すぐリムジンを正面玄関に回させなさい」
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアア!! 腕の感触が消えない!! 私の肩に残る彼の右手の残像が、今も細胞レベルで私を支配しているわ!! 佐藤くん、逃がさない……絶対に逃がさないわよ。今日の『お返し』として、明日の朝は私が貴方の部屋のベッドに直接潜り込んで、二十四時間体制で貴方の『危機管理』を遂行してあげるんだからあああああ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
明日の朝の不法侵入を確約するような絶叫を背中で聴きながら、僕は足早に歩く彼女の後を追った。
夕暮れの駅前、お揃いの青いブレスレットが、僕たちの縮まった距離を証明するように、カチリと微かな音を立てて触れ合っていた。
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