第17話 氷の令嬢の「お家騒動」は、家庭訪問のインターホンから始まる
神代さんによる細胞レベルの「健康統制(お弁当支給)」が始まってからというもの、僕の胃袋は完全に神代グループの管理下に置かれていた。毎日、お昼休みに屋上で繰り広げられる「あーん」の儀式(※彼女にとっては国家レベルの極秘作戦)にも、僕の心臓は少しずつ、しかし確実に慣らされつつあったのだ。
しかし、彼女の独占欲という名の防衛網がどれほど完璧であろうとも、「不可抗力」という名の侵入者は、ある日突然、僕の生活の最もプライベートな空間へと押し寄せてくる。
それは、神代さんの言葉を借りるなら「スラム街と同等」であるはずの、僕の質素なワンルームの自宅でのことだった。
ピンポーン。
休日の午後、僕が大学のレポート課題に追われていると、我が家の安っぽいインターホンが鳴り響いた。宅配便の予定はなかったはずだと首を傾げながらドアを開けると、そこには、およそこの住宅街には似合わない、圧倒的なオーラを放つ人影が立っていた。
「……遅いわよ、佐藤くん。不審者の侵入を警戒するのは当然の防犯意識だけれど、私の訪問に対してこれほどドアの開閉を遅延させるなんて。神代グループの警備部門なら、今頃貴方の部屋のセキュリティレベルは『レッドアラート(即時制圧)』に引き上げられているところよ」
そこにいたのは、最高級のシルクで仕立てられた白いサマードレスに、大きなサングラスをかけた神代凛花だった。その後ろには、山のような荷物を抱えたセバスチャンさんが、相変わらずの鉄面皮で控えている。
「えっ、神代さん!? どうしてここに……っていうか、その荷物は一体?」
「……フン。言ったはずよ、貴方の『生活環境の視察』だと。……貴方がこのような狭隘(きょうあい)で衛生環境も不透明な空間で生活していると思うだけで、私の脳内の不快指数が神代重工の株価大暴落並みの数値を叩き出すのよ。よって、本日は私が直々に貴方の城(部屋)を『構造改革』しに来てあげたわ」
神代さんは僕の返事も待たずに、優雅な足取りで狭い玄関へと踏み込んできた。その瞬間、彼女の纏う濃厚な薔薇のアロマが、一瞬にして僕の部屋の生活臭を駆逐していく。
(((((((((((((((((((((((((((((((((キタアアアアアアアアアアア!! 男子の部屋!! ついに佐藤くんの秘密の聖域に不法侵入(※アポなし)することに成功したわ!! 見て凛花、ここが彼の寝起きし、食事をし、私のことを妄想して夜な夜な枕を濡らしている(※妄想)現場なのね!! ああああ、狭い! 狭くて彼との物理的距離が強制的にゼロになるわ!! 今すぐこの部屋の四方に神代家特製の防犯カメラを設置して、私のスマートフォンから二十四時間体制で彼の生態をライブ配信(私限定)してやるんだからああああ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))
ライブ配信だけは、僕の人権のために全力で阻止させてもらいたい。
神代さんは部屋の真ん中に立つと、サングラスを外して、六畳一間の室内をじろじろと見回し始めた。その瞳は、まるでリフォーム番組の劇的ビフォーアフターの専門家のようであり、同時に、浮気調査を行うベテラン刑事のようでもあった。
「……ふん。一応、雌(メス)の髪の毛一本すら落ちていないようね。貴方の貞操観念だけは、神代家のパートナーとしての最低ラインをクリアしていると評価してあげるわ」
「だから、そんな人来るわけないってば……」
「……黙りなさい。油断は禁物よ。……セバス、例の物を搬入しなさい」
「御意にございます、お嬢様」
セバスチャンさんが部屋に運び込んだのは、神代グループが誇る最新の「空気清浄機」、エジプト綿を100%使用したという最高級の「ベッドシーツ」、そして何故か、神代さんの写真がこれでもかと大きくプリントされた「特製クッション」だった。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((よし、第一段階完了よ!! これで彼の部屋の空気は私の息吹と同じになり、彼のベッドは私の肌触りと同じになり、そして彼が寝る時は私のクッションを抱きしめざるを得なくなる……!! これって実質的に『同棲』、いえ、それ以上の『精神的監禁』の成立よね!? 佐藤くん、貴方のプライベート空間を私の色彩で完全に塗り潰して、一分一秒たりとも私以外のことを考えられない脳内環境にしてあげるんだからあああああ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))
精神的監禁という不穏すぎる単語に、僕は背筋が凍るような、しかしそれ以上に、僕の部屋を自分の色に染めようと耳まで真っ赤にして指示を出す彼女の姿に、どうしようもない愛おしさを覚えていた。
「神代さん。……これ、全部僕のために用意してくれたんだよね。……部屋が狭いからちょっとびっくりしたけど、その……君の匂いが残るなら、僕、すごく嬉しいよ」
「………………っっ!?」
僕がシーツに触れながらそう呟いた瞬間、神代さんは持っていた扇子を取り落とし、そのまま文字通り「沸騰」したかのように顔を真っ赤に染めて硬直した。
自分の匂いが残るなら嬉しい――僕が何気なく口にしたその一言は、神代凛花という精緻なシステムを完全にシャットダウンさせるに十分な破壊力を持っていた。
彼女は落とした扇子を拾うことすら忘れ、両手で自らの真っ赤に染まった頬を覆い、あわあわと金魚のように口を動かしている。
「な、ななな……何を破廉恥なことを供述しているのよ、貴方は……っ! 匂い!? 私の残り香を、貴方のような一介の男子学生が日々摂取して快楽を得ようだなんて、神代家に対する最大級の不敬、いえ、公然わいせつ罪に相当するわよ……っ!」
「いや、快楽を得るだなんてそんな大袈裟な意味じゃなくて……」
「黙りなさい! 貴方のその不純な動機を見抜くために、本日私はここへ赴いたのよ。セバス、早く、早くその最高級エジプト綿のシーツを彼のベッドに敷き詰めなさい! 彼の網膜と嗅覚を、一刻も早く私の管轄下に置くのよ!」
(((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアア!! 嬉しい!! 死ぬ! 恥ずかしすぎて私の心臓が神代重工のジェットエンジン並みの回転数で爆発しそうだわ!! 『君の匂いが残るなら嬉しい』!? それって実質的に、毎日私の香りに抱かれながら眠りたいっていう、事実上の夜這い(※違います)の予告じゃないのよおおおお!! 佐藤くん、貴方って人は、どうしてそんな清々しい顔で私の理性を木っ端微塵に粉砕するのよおおお!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))
夜這いの予告にされてはたまらないが、彼女の脳内はすでに僕の安アパートを舞台にした超大作の恋愛小説へと突入しているようだった。
セバスチャンさんが流れるような手つきで僕の万年床に最高級シーツをセッティングし、部屋の隅に空気清浄機を設置していく。わずか六畳の空間が、瞬く間に五つ星ホテルのスイートルーム(ただし広さは六畳)のような、奇妙な高級感を醸し出し始めた。
「……よし、これで環境の最低基準は満たされたわ。佐藤くん、貴方は今後、このシーツ以外の布地で睡眠をとることを一切禁じます。もし他の安物のシーツに浮気したなら、私の私設衛生部隊がこの部屋ごと高熱消毒(ロックダウン)しに来るから覚悟しておきなさい」
「わかったよ。ありがたく使わせてもらうね」
「……ふん、当然よ。それで、その……」
神代さんは急に声を潜めると、セバスチャンさんが持ってきた山のような荷物の中から、ひときわ丁寧にラッピングされた小さな箱を僕に差し出してきた。
「……これは、何?」
「……ただの、おまけよ。貴方の貧相なキッチンを調査したところ、まともな調理器具が皆無だったから、私が神代グループの高級調理器具部門に作らせた『多機能電気圧力鍋』よ。……これに指定の食材を入れてボタンを押すだけで、私が屋上で支給しているお弁当と同じ栄養素のスープが、いつでも自動で生成されるわ」
「え、圧力鍋? ……それって、もしかして僕が家で一人の時も、神代さんのご飯(と同じもの)を食べられるようにってこと?」
「………………っっっ!!」
本日二度目の直撃。神代さんは今度こそ限界を迎えたようで、カチコチに凍りついたまま、手に持っていた箱を僕の胸に押し付けた。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((その通りよおおお!! 大正解よ佐藤くん!! 貴方が家で一人でいる夜、私が隣にいない寂しい時間、私のスープを飲むことで、私の存在を胃袋から思い出して欲しかったのよおおお!! これで朝昼晩、二十四時間、貴方の食卓は完全に私の独占市場よ!! 逃げられないわ、佐藤くん! 貴方の血肉は、私の愛という名のスパイスで永遠に満たされるんだからあああああ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
愛のスパイスが効きすぎていて胃もたれしそうだが、僕のためにわざわざそんなものまで開発・手配してくれた彼女の執念――いや、一途すぎる想いに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ありがとう、神代さん。今日の夜、早速使ってみるよ。……これで、一人の夜も寂しくないね」
「……っ、ふ、ふん! 貴方が寂しかろうがどうなろうが、私には関係のないことよ。私はただ、我が家のパートナーが栄養失調で倒れるという『不祥事』を防ぎたいだけなのだから……。セバス、もう行くわよ! この部屋の熱気は、私の高貴な肌には刺激が強すぎるわ!」
神代さんは真っ赤な顔のまま、回れ右をして玄関へと突進していった。
去り際、セバスチャンさんが僕に向かって「お嬢様の暴走にお付き合いいただき、感謝いたします」と、声に出さず綺麗な一礼を残していったのが印象的だった。
バタン、とドアが閉まり、再び静寂が戻った僕の部屋。
しかし、そこには確かに彼女の薔薇の香りと、五つ星ホテルのようなシーツ、そしてずっしりと重い圧力鍋が残されていた。
「一人の夜も、完全に神代さんのペースだな……」
僕は苦笑しながらも、彼女から贈られたシーツにそっと触れ、そのあまりの心地よさと重すぎる愛に、深く包まれていくのを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます