第13話 氷の令嬢の「監視網」は、隣のクラスまで及んでいる

学園祭という一大イベントを乗り越え、僕と神代さんの関係は、クラスメイトたちから「不可侵領域」として扱われ始めていた。神代凛花という絶対的な捕食者が、佐藤誠という地味な草食動物に「縄張り」の印をつけた……学園の生態系は、今やそんな奇妙なパワーバランスで成り立っている。


だが、そんな均衡を揺るがす事態は、いつも予期せぬ方向からやってくる。


「……ねえ、誠! 久しぶりじゃん、元気してた?」


昼休み、中庭の自販機でココアを買おうとしていた僕に、背後から親しげな声がかかった。振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。隣のクラスの女子、佐々木さんだ。彼女とは中学時代に塾が一緒で、たまに勉強を教え合ったりする、いわば数少ない「気心の知れた友人」だった。


「あ、佐々木さん。久しぶり。学園祭、お疲れ様。展示、見に行ったよ」


「本当? ありがとう! 誠、学園祭ですごい有名人になってたから、声かけるの緊張しちゃったよ。執事姿、写真で見たけどすっごく似合ってたね!」


佐々木さんは屈託のない笑顔で笑い、僕の肩を軽くポンと叩いた。中学時代からの気安さもあり、僕もつい緊張を解いて、「いや、あれは神代さんに無理やり着せられただけで……」と、いつもの調子で世間話を始めてしまった。


それが、致命的なミスだった。


ゾクリ、と背筋に氷の刃を押し当てられたような戦慄が走った。

 自販機の裏、校舎の角、あるいは異次元の隙間……どこからともなく、この世のものとは思えないほどの「殺気」と「絶対零度の冷気」が噴き出してきたのだ。


「……佐藤くん。そこで何をしているのかしら。午後の授業の準備は? 私が指定した参考書の要約は? 貴方の時間は、私の許可なく他人に切り売りしていいほど価値の低いものだったのかしら」


いつの間にそこにいたのか、神代さんが影のように立っていた。その瞳は完全に「獲物を仕留める前の猛禽類」のそれであり、向けられた視線だけで佐々木さんの笑顔が瞬時に凍りついた。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 誰よ!? その『幼馴染オーラ』全開で佐藤くんに触れている泥棒猫は!! 誠!? 下の名前で呼んだわよね!? 今、私の鼓膜が腐り落ちるような不浄な音を検知したわ!! 肩に触れた!? その指! 今すぐ神代グループのバイオテクノロジー部門で細胞レベルから分解して、宇宙の塵(ちり)に変えてやらないと気が済まないわあああああ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))


本音が音割れどころか、もはや地鳴りのように響いている。神代さんは、僕と佐々木さんの間に、物理的な壁を作るようにして割り込んだ。その距離、わずか数センチ。


「え、あ、神代さん……。彼女は中学の時の友達で……」


「……友達? 辞書を引き直してきなさい、佐藤くん。神代家において、『友達』とは互いの利害が一致し、書面で契約を交わした仲のことを指すのよ。……貴方、彼女とどんな契約を交わしたのかしら。まさか、私の知らないところで『友情』という名の密約を?」


「いや、そんな大層なものじゃなくて……」


「……黙りなさい。……そこの貴方。佐藤くんは今、私との『重要プロジェクト(※ただの放課後デート)』の真っ最中なの。部外者が彼の集中力を削ぐのは、神代グループに対する業務妨害と同義よ。……さあ、去りなさい。三秒以内に立ち去らないなら、貴方の家のインターネット回線を三代先まで遮断するよう手配するわ」


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((いけええええ!! 私の威圧(プレッシャー)に屈して逃げ出しなさい!! 佐藤くんは私の太陽! 私の空気! 私の生存戦略の核心なのよ!! 他の女に一秒でも彼を見せるなんて、私の心臓を素手で握りつぶされるより苦痛なの!! 佐藤くん、見て、私を見て!! 私だけが貴方の正解なのよ! 早く私を抱きしめて『僕の友達は君だけだ』って記憶喪失のフリをしてでも宣言してえええええ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


佐々木さんは「ひ、ひええ……ごめん、誠! またね!」と悲鳴を上げて逃げ去っていった。

 後に残されたのは、肩で荒い息をつく(内心で絶叫しすぎたせいだろう)神代さんと、呆然とする僕だけだった。


「……神代さん。流石に今の言い方は……」


「……フン。貴方が隙を見せるから、害虫が寄ってくるのよ。……佐藤くん。貴方はまだ理解していないようね。貴方の左手にあるそのミサンガは、ただの飾りじゃない。……それは、私が貴方を未来永劫、独占するという呪いなのよ」


神代さんは、僕の腕を乱暴に掴み、自分の胸元へと引き寄せた。

 至近距離。怒りと、そして隠しきれない「不安」で潤んだ瞳が、僕を射抜く。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((怖い……。怖いのよ、佐藤くん。貴方が私の知らないところで、誰かと笑い合っているのを見るだけで、私の世界は真冬のシベリアよりも寒くなるの。……お願い、行かないで。私だけの佐藤くんでいて。貴方の網膜に映る映像を、二十四時間体制で私が検閲させてちょうだい……!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


独占欲が、もはや法的・科学的な次元を超え、純粋すぎるほどの執着へと変貌していた。

 僕は彼女の震える指先を見て、叱る気も失せてしまった。

 この「氷の令嬢」の鉄壁の監視網から逃れる術は、もうこの世界には存在しないらしい。


中庭に流れる沈黙は、逃げ出した佐々木さんの足音と共に遠ざかっていった。残されたのは、僕の腕を掴んだまま、耳まで真っ赤にして俯く神代凛花だけだ。

 掴まれた腕からは、彼女の指先が小刻みに震えているのが伝わってくる。あれほど傲岸不遜な態度で「業務妨害」だの「インターネット遮断」だのとまくしたてていた彼女は、今や迷子の子供のように、僕の袖を握りしめて離さない。


「……神代さん。腕、痛いよ」


「……っ。……失礼。貴方があまりに、神代家の資産としての自覚に欠ける振る舞いをするから、物理的に固定して分からせてあげただけよ」


彼女はパッと手を離したが、その視線は未だに僕の足元あたりを彷徨っている。


((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアア!! やってしまったわ!! また嫌われる!! 傲慢! 強欲! 独占欲の塊!! こんな女、佐藤くんじゃなくてもドン引きだわ!! でも、でも……!! あの女が彼を下の名前で呼んだ瞬間、私の理性が神代グループの時価総額並みのスピードで暴落したのよ!! 無理! 誠、誠、誠……!! 私だって、私だって本当はそう呼びたいのに!! なんで知り合ったばかり(※半年前)の私を差し置いて、あんな小娘が親密そうに……!!))))))))))))))))))))))))))))))))


脳内の絶叫は「下の名前」への猛烈な嫉妬へとシフトしていた。

 彼女は深呼吸を一つすると、不自然なほど背筋を伸ばし、扇子を広げて顔を隠した。


「……佐藤くん。貴方、あのような……名前で呼び合うような無秩序な関係を、今後一切禁止します。……どうしても誰かに名前で呼ばれたいというのであれば、神代グループの戸籍管理部門に申請を出しなさい。受理されるまでには、最低でも半世紀はかかるわ」


「半世紀って、僕もうおじいちゃんだよ……。それに、彼女はただの昔の知り合いだから」


「……『ただの』? その言葉、私の前で二度と使わないことね。私にとって、貴方の周囲に存在する雌(メス)は全て『潜在的脅威』であり、『殲滅対象』なのよ」


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((そうよ、全方位監視! 全方位迎撃よ!! 佐藤くんの半径二メートル以内に入る女子には、神代家の特製ドローンを配備して二十四時間体制で威嚇射撃(※水鉄砲)を見舞ってやるわ!! 彼の視界には私という高嶺の花だけが咲いていればいいの!! 佐藤くん、お願い、その瞳に私だけを録画して、他の情報は全て上書き保存してえええええ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


ドローンによる威嚇射撃は校則違反以前に法律に触れそうだが、彼女の瞳には本気の色が宿っている。

 神代さんは、おもむろに自分の鞄から一冊の分厚い革張りの手帳を取り出した。


「……いいわ。今から貴方の『既知の友人リスト』を全て開示しなさい。神代グループの調査機関を用いて、一人ひとりの身元、性格、過去の犯罪歴、そして貴方に対する好感度を数値化して審査してあげるわ。……審査に落ちた人間との接触は、今後一切認めないから」


「……神代さん。そんなの、友達が誰もいなくなっちゃうよ」


「……あら、何か問題があるのかしら? ……貴方には、私がいるでしょう。……それとも、私は貴方の友人としては、不足だとでも言うつもり?」


神代さんは僕を一歩追い詰め、至近距離で僕の顔を覗き込んだ。その瞳には、先ほどまでの攻撃的な光ではなく、壊れ物を扱うような、切実な「問い」が浮かんでいた。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ああ……言ってしまった……。重い、重すぎるわよね凛花。でも、でもね、佐藤くん。私は貴方の世界で、唯一無二になりたいの。友達なんて言葉じゃ足りない。……貴方の呼吸も、拍動も、思考の断片さえも、全て私が独占していたいの。私がこんなに狂おしいほど貴方を求めていることに、貴方はいつ気づいてくれるの……!?))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


心の声が、もはや物理的な質量を持って僕の胸にのしかかってくる。

 彼女の不器用で、歪で、けれどあまりにも純粋な独占欲。

 僕は、彼女の持つ手帳をそっと押し下げた。


「……友人リストの審査はいらないよ。……だって、僕にとって神代さんは、他の誰とも比べられない、一番特別な存在なんだから」


「…………っ!!」


神代さんは、文字通りフリーズした。

 目を見開き、口を微かに開け、全身が彫刻のように硬直する。


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((ア、ア、ア、ア…………トクベツ…………イ、イマ…………イ、一番特別な存在って言った!? 言ったわよね!? これ、全宇宙の言語を翻訳しても『結婚しましょう』以外の意味にならないわよね!? 佐藤くん、貴方、自分が今、神代グループの全総力を挙げて守り抜くべき『人類至宝』に昇格したことを自覚しているの!?))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


結婚までは飛躍しすぎだと思うが、彼女の顔はこれまで見たこともないほど真っ赤に沸騰していた。

 神代さんは震える手で顔を覆い、蚊の鳴くような声で絞り出した。


「……ふ、ふん。……ようやく、神代家のパートナーとしての正しい優先順位を理解したようね。……今日のところは、その殊勝な態度に免じて、ネット回線の遮断は見送ってあげるわ」


「……ありがとう、助かるよ」


「……午後の授業。……私の隣で、一瞬たりとも目を離さずに受講しなさい。……貴方の視線が私から逸れたら、その瞬間に緊急会議を招集するわよ」


((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアア!! 幸せすぎて死ぬ!! 今日はもう授業なんて耳に入らないわ!! 彼の視線を感じながら、脳内で私たちの新婚旅行のプランを百パターンくらいシミュレーションするんだから!! 佐藤くん、大好き!! 大好き大好き大好き!! 私の監視網(愛)から、一生逃げられるなんて思わないでねえええええ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


神代さんは千鳥足のような足取りで、意気揚々と教室へと戻っていった。

 その背中から放たれる「愛の絶叫」は、もはや校舎全体に響き渡るのではないかというほどの爆音だった。


僕を独占しようとする「氷の監視網」。

 その網は、いつの間にか僕自身の心も、心地よく縛り付けていた。

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