第12話 氷の令嬢の「平常心」は、休み時間に霧散する
学園祭という喧騒が嘘のように、校内には穏やかな、しかしどこか浮足立ったような日常が戻っていた。
窓から差し込む午後の陽光は、机に伏せて微睡む僕の背中を優しく撫でている。……はずだったのだが、僕の周囲の空気は、以前のような「透明な静寂」を二度と取り戻すことはなかった。
「……ねえ、佐藤くん。この前の学園祭の執事姿、実は私、こっそり動画で撮っちゃったんだよね。見たい?」
「あ、ずるい! 私も欲しい! あの時の佐藤くん、いつもと雰囲気が違って、なんていうか……すごく『支えたい』って感じがしたよね」
休み時間のチャイムが鳴るやいなや、僕の席の周りには数人の女子が集まり、他愛もない、しかし熱を帯びた世間話を振ってくる。
以前の僕なら、ただの「背景の一部」として誰にも気に留められることはなかった。しかし、学園祭での「氷の令嬢の唯一の理解者」としての立ち振る舞いが、図らずも僕を一種の有名人にしてしまったらしい。
「あはは、そんな大層なものじゃないよ。全部神代さんの指示が的確だっただけだから」
僕は苦笑いしながら、波風を立てないように答える。だが、その瞬間。
教室の入り口の引き戸が、ガタガタと異様な音を立てて開いた。同時に、物理的に空気を凍らせるような冷気が教室全体を支配する。
「……あら。随分と賑やかね。ここは学びの舎であって、ふしだらな談笑に興じる社交場ではないはずだけれど? 貴方たちの声、廊下の端まで響いていて非常に不快だわ」
神代凛花が、重厚な革張りのバインダーを胸に抱き、刺すような視線を僕の周りの女子たちに向けて立っていた。その瞳は、まるで侵入者を拒絶する絶対零度の結界のようだ。
(((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 離れなさい!! その、佐藤くんとの絶妙な『話しやすい距離感』から今すぐ三百メートル後退しなさい!! 学園祭が終わったからって、彼がフリーになったとでも思っているの!? 彼は! 私の! 血と汗と涙(※脳内)の末にようやく繋ぎ止めた、契約済みパートナーなのよおおお!! それに何!? 動画!? 削除しなさい! 今すぐその端末を神代グループのサイバーセキュリティ部門に提出して、一ビット残らず消去してやるわああああ!!))))))))))))))))))))))))))))))))
神代さんは優雅な、しかし一歩ごとに床を砕かんばかりの力強い足取りで僕の席まで歩み寄ると、女子たちの間に無理やり割って入るようにして、僕の机に手をついた。
「佐藤くん。貴方、午後の講義の予習は済ませたのかしら。……無能な群れと群れている暇があるなら、私のために完璧なノートを作成しなさい。……当然の義務でしょう? 貴方の脳細胞は、私のためにのみ回転することを許されているのだから」
「え、あ、うん。……今ちょうど開いたところだよ」
「……そう。ならいいわ。貴方たち、もう用は済んだでしょう? 彼の集中力をこれ以上削ぐなら、次回の校内模試の結果に神代家の力が及ぶことになるかもしれないわよ」
女子たちは、神代さんのあまりの威圧感と、冗談に聞こえない「神代家の力」という言葉に顔を引かせ、「あ、じゃあまたね……」と蜘蛛の子を散らすように去っていった。
嵐が去った後、神代さんはフン、と鼻を鳴らして僕の隣の席に座った。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((危なかった……! 私が到着するのがあと数秒遅れていたら、彼はあの女たちに毒牙にかけられ、今頃はどこの馬の骨ともしれない女との連絡先交換を強要されていたはずだわ!! 佐藤くん、貴方はどうしてそんなに無防備なの!? 私という猛毒の主がいながら、他の花に鼻の下を伸ばすなんて許さないんだからああああ!! 浮気! 不倫! ギルティよ!! まだ付き合ってないけど、精神的にはもう金婚式を終えた気分なのよおおお!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))
精神的な時間経過が早すぎてついていけない。
神代さんは周囲に誰もいないことを確認すると、不意に声を潜め、僕にだけ聞こえるような温度感で囁いた。
「……佐藤くん。今日の放課後、予定を全て白紙にしなさい。……神代グループが所有するプライベート・アイランドから、最高級の天然岩塩と、極秘裏に開発されたアロマオイルが届いたわ。……それを使って、貴方に『特別なバスボム』を作らせてあげる」
「バスボム……? また自宅に呼び出し?」
「……勘違いしないで。貴方が最近、不特定多数の女子の相手をして、精神的に疲弊しているように見えたから、私の慈悲でリラックスさせてあげようと思っただけよ。……神代家のパートナーが、他の女の残り香を纏っているなんて許せないもの。貴方の香りは、私が上書きしてあげなきゃいけないのよ」
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((誘った! 自然な流れで放課後の密室デート(建前は工作)に誘ったわ!! 天然塩のバスボム作り……お互いに練り上げた入浴剤を交換して、それをそれぞれの家で使う。これって実質的に『同じお湯に浸かっている』のと同義よね!? 概念的な混浴だわ!! ああああ、なんて天才的な論理展開なのかしら凛花!! 今日こそ彼を私の香りで隅々まで包み込んで、指先から髪の毛一本まで私の所有物だという刻印を刻んでやるんだからああああ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
概念的混浴という新しすぎる言葉に脳が痺れる。
けれど、僕を独占しようと必死に、支離滅裂な言い訳を探しながら、耳まで真っ赤に染めてバインダーをぎゅっと抱きしめる彼女の姿は、どうしようもなく愛おしかった。
「わかった、行くよ。……神代さんの作るバスボム、楽しみにしてるから」
「……ふん、当然よ。私のセンスを疑う余地なんて一ミリもないわ。……後悔させないことね」
彼女の絶叫のような本音を聴きながら、僕は午後の授業の準備を始めた。
隣で、彼女が自分の手首にあるミサンガを、僕に見せびらかすように何度も整えているのが見えた。
僕たちの「第一部」が終わった後の、最初の一歩。
それは、これまで以上に激しく、そして重すぎるほどの愛に満ちた日常の幕開けだった。
放課後、校門の前に横付けされた漆黒のリムジン。慣れた手つきでドアを開ける黒スーツの男たちの視線を浴びながら、僕は神代さんと共に神代家の広大な屋敷へと向かった。
通されたのは、前回のお菓子作りで使った食堂ではなく、さらに奥にある「趣味の工作室」と銘打たれた部屋だった。そこには白衣に身を包んだ数人の研究員(!)が直立不動で待機しており、テーブルの上には、もはや実験器具にしか見えない精密な秤や、見たこともない色の粉末が並んでいた。
「……神代さん。これ、本当にバスボムを作るだけなんだよね?」
「当たり前でしょう。神代家の人間が中途半端なものを作るわけがないわ。重曹とクエン酸の配合比率はもちろん、アロマの揮発速度、そしてお湯に溶けた際の肌の角質層への浸透圧まで、全て計算し尽くしているの。……さあ、佐藤くん。貴方は黙って私の指示通りに粉を混ぜなさい」
神代さんは、どこから取り出したのか銀色のピンセットを手に、最高級の天然岩塩を一粒ずつ検品し始めた。その瞳は、まるで宝石鑑定士のように鋭い。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((始まったわ……! 佐藤くん改造計画・第一段階! この『神代凛花特製・精神支配(リラックス)バスボム』には、私の屋敷の庭で朝露と共に摘み取った薔薇の精油を、通常の致死量(※比喩)ギリギリまで配合しているのよ! これをお風呂に入れた瞬間、浴室は私の香りで満たされ、彼は湯船の中で私のことしか考えられなくなる……! 逃げ場はないわ、佐藤くん。貴方の皮膚の毛穴一つ一つに、私の愛を染み込ませてあげるんだからああああ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
致死量の精油は勘弁してほしい。
僕は指示されるがままに、ボウルの中で粉末を混ぜ合わせる。霧吹きで少しずつ水分を加え、固めていく作業だ。指先に伝わるしっとりとした感触と、部屋中に広がる濃厚な、けれど驚くほど心地よい花の香り。
「……いい香りだね。神代さんが選んでくれたこの香り、すごく落ち着くよ」
僕が何気なくそう言うと、ピンセットを持つ神代さんの手がピタリと止まった。
「……べ、別に貴方を落ち着かせるためじゃないわ。私の嗅覚を満足させるための最低ラインを選んだだけよ。……ほら、手が止まっているわ。もっと均一に混ぜなさい。その指の動き、まるで素人ね(※素人です)」
((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアア!! 褒められた!! 『落ち着く』って言われたわ!! ということは、私の香りと彼の精神のシンクロ率が100%を超えたってことよね!? これ、もう実質的に私が彼の脳内に直接ログインしたのと同義じゃない!! 佐藤くんの指……その細くて綺麗な指で、私(の配合した粉)を捏ねている……。ああ、その指で今すぐ私の頬に触れて、『君の香りが一番好きだ』って囁いてえええええ!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
脳内ログインはセキュリティ的に問題がある気がするが、彼女の期待に応えるべく、僕は丁寧に型に詰めていく。
作業が進む中、神代さんは不意に、自分が作っていた「真っ赤なハート型」のバスボムを、僕のボウルの中にそっと置いた。
「……それは、私からの『特別報酬』よ。……中に、神代グループの最新技術を駆使した『溶けないメッセージプレート』を封じ込めておいたわ。……お湯が透明になった時、それを読みなさい。……いいわね、絶対に、お風呂に入るまで開けてはダメよ」
「メッセージプレート? ……何て書いてあるの?」
「……貴方の知能レベルでは理解できないような、高尚な哲学よ。……さあ、もう帰りなさい。セバスが、貴方を送り届ける準備ができているわ」
神代さんは真っ赤な顔をして僕を部屋から追い出した。
背後からは、いつものように割れんばかりの絶叫が響いてくる。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((言えない! 『一生離さない』なんて、恥ずかしくて口が裂けても言えないわ!! だからプレートに刻印しておいたのよ! 耐水性・耐熱性・耐衝撃性に優れたチタン合金製のプレートに、私の呪い……いえ、純愛を!! お風呂の中で一人、私の重圧に震えながら悶絶しなさい佐藤くん!! 大好き! 大好きすぎて、今すぐ貴方の家のお風呂場に隠しカメラを設置したいぐらいよおおお!!))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
隠しカメラだけは神代グループの力をもってしても阻止してほしい。
僕は渡されたずっしりと重い(チタンのせいだろうか)バスボムを抱え、リムジンに乗り込んだ。
その日の夜。
自宅のお風呂で、僕は彼女のバスボムを湯船に落とした。
シュワシュワと激しく、まるでお化け屋敷での彼女の動揺を体現したかのような勢いで溶けていく赤い泡。
やがてお湯が落ち着いた頃、浴槽の底にキラリと光る銀色のプレートが沈んでいた。
そこには、達筆な彫刻でこう記されていた。
『貴方の休日は、今後全て私が買い取ります。 神代凛花』
……哲学でも何でもない、ただの独占宣言だった。
けれど、立ち上る薔薇の香りと、彼女の不器用すぎる「予約」に、僕は苦笑しながらも、心の底から温まるのを感じていた。
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