第5話 氷の令嬢の「期待」は、僕の予想を超えてくる。

学園祭の準備が本格化し、放課後の教室は文化祭特有の喧騒に包まれていた。

 僕と神代さんは、クラスの出し物であるコンセプト・カフェの「試作メニュー」を確認するため、調理実習室にいた。


「……遅いわよ、佐藤くん。貴方の時間管理能力は、神代グループの末端社員以下ね」


神代さんは、純白のエプロンを制服の上から完璧に着こなし、腕を組んで僕を待っていた。その姿は、調理実習というよりは一流シェフの厨房点検のような威圧感がある。

 だが、僕の脳内はすでに彼女の「事前準備」の凄まじさに圧倒されていた。


(((((((((((((((((((((エプロン! エプロン姿見られた! どう!? 清楚!? それとも新妻っぽい!? ああああ、佐藤くんが私のエプロン姿を見て、一瞬だけ目を見開いたわ! 今、彼の脳内では私との新婚生活のシミュレーションが第14段階まで進んだはずよ!! 早く「お帰りなさい、あなた。ご飯にする? お風呂にする? それとも……私?」って言わせてええええ!!))))))))))))))))))))


残念ながら第1段階(「あ、エプロンだ」)で止まっているけれど、彼女の妄想の跳躍力には脱帽する。

 僕は苦笑しながら、手元の材料を並べた。


「ごめん、委員会の資料を出しに行ってたんだ。……それで、今日はパンケーキの試作だっけ?」


「ええ。クラスの連中が『映え(ばえ)』を意識したメニューがいいと騒いでいたから。……私が直々に、貴方の稚拙な調理技術を矯正してあげるわ。感謝しなさい」


(((((((((((((((((((((((((((本当はね! 昨日の夜、セバスを相手に20枚も焼いて練習したのよ! 指を火傷しそうになりながら、表面はサクッと、中はフワッとした『黄金比パンケーキ』をマスターしたわ!! これを食べれば、佐藤くんは私の胃袋……じゃなくて調理スキルの虜になる! 胃袋を掴むのは恋の基本だものね!!)))))))))))))))))))))))))))


胃袋を掴むためにセバスチャンさんが犠牲(試食係)になったのかと思うと、少し同情してしまう。

 調理が始まると、神代さんの動きは驚くほどテキパキとしていた。しかし、いざ僕がボウルを持って混ぜようとすると、彼女はスッと背後に回り込み、僕の手を上から重ねるように握った。


「……何をしているの。混ぜ方が甘いわ。こうして、手首のスナップを使いなさい」


「わっ……神代さん、近いよ」


背中越しに彼女の体温が伝わってくる。ふわっと香るシャンプーの匂い。


(((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアア!! 密着!! バックハグ(仮)!! 佐藤くんの手、男の子らしくてゴツゴツしてる……好き!! このまま時間が止まればいいのに! パンケーキなんてどうでもいい、今すぐ彼を甘いシロップ漬けにして、私の部屋のコレクションケースに飾りたい!!)))))))))))))))))))))))))))))))))


コレクションケースに入れられたら困るので、僕は必死に意識をボウルの中に集中させた。

 なんとか生地を焼き上げ、皿に盛る。神代さんは、仕上げのホイップクリームとチョコペンを僕に手渡した。


「……最後は貴方がやりなさい。失敗したら、そのパンケーキごと貴方を窓から放り出すわ」


((((((((((((((((((((((((((((((((((チョコペン……! これで『好き』って書いて! いえ、それは流石にハードルが高いわよね。でも、何か特別なメッセージを……! 私の名前を書いてくれるだけで、私はそれを写真に撮って家宝にして、毎朝拝むわ!! さあ書いて! 私への愛をチョコに込めて!!))))))))))))))))))))))))))))))))))


神代さんは冷徹な顔で僕の手元を凝視している。その眼圧はもはや「書かなければ命はない」というレベルの強さだ。


僕は迷った末、チョコペンを動かした。

 真っ白なパンケーキの上に描いたのは――。


「……できた。猫、描いてみたんだけど。神代さん、これ好きでしょ?」


そこには、彼女がいつも僕に貼ってくれる絆創膏と同じ、少し不格好な猫のイラストがあった。


「…………っ!」


神代さんは息を呑み、固まった。

 外面の彼女は、震える声で絞り出した。


「……幼稚ね。食べ物で遊ぶなんて、育ちを疑うわ」


(((((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア(音割れ限界突破)!!!!! 猫! 私の好きな猫! それを覚えていてくれたの!? 私のために描いてくれたの!? 佐藤くん、貴方は天使なの!? 聖母なの!? このパンケーキ、食べるなんてできない! 永久保存処置(パラフィン加工)を施して、私のベッドの横に祭壇を作って飾るわあああ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))


パラフィン加工はやめて、普通に食べてほしい。

 神代さんは真っ赤な顔をしてフォークを握り締め、猫のイラストを避けるように、端っこの方を恐る恐る口に運んだ。


「……悪くないわ。及第点ね」


神代さんは一口食べると、素っ気なくそう言った。だが、その瞳は潤み、頬は上気している。猫のイラストを避けて食べていたはずが、今では名残惜しそうにチョコの跡を見つめていた。


((((((((((((((((((((((((美味しい……。砂糖の甘さじゃない、これは佐藤くんの優しさの味よ……! 宇宙で一番甘美な毒だわ。私の胃袋が、彼の存在そのものを求めて痙攣している! おかわり! おかわりを頂戴! いえ、おかわりは佐藤くん自身がいいわ! 彼をこのパンケーキのようにフワフワに焼いて、私が毎日……))))))))))))))))))))))))


脳内の発言がどんどん不穏(かつ情熱的)になっていくのを、僕は必死で無視した。

 すると、神代さんが急に真面目な顔をして僕を見据えた。


「……佐藤くん。貴方、学園祭のカフェでは、誰が給仕をするか知っているの?」


「え? 実行委員の僕たちも手伝うことになってるよね?」


「そうよ。……つまり、貴方は執事服を着て、あのおぞましい女子たちの前で微笑みを振りまくということ。……反吐が出るわ。貴方の笑顔は、もっと価値のある場所で使われるべきよ」


((((((((((((((((((((((((((嫌だ嫌だ嫌だ!! 他の女子に佐藤くんの執事姿を見せるなんて、死んでも嫌!! 彼は私の専属執事……いえ、私の王様なのよ! 他の女が「お代わりいかがですか?」なんて言われて赤面している姿を想像しただけで、私はこの調理実習室を液体窒素で凍結させて、人類の歴史を終わらせてしまいたくなるわ!!))))))))))))))))))))))))


人類を終わらせないでほしい。

 神代さんは震える手で紅茶を一口飲み、決心したように告げた。


「……だから、特別に許可してあげる。学園祭当日、貴方が他校の女子や、うちの質の悪い生徒たちに絡まれないよう、私が常に貴方の隣で『監視』してあげるわ。……あくまで、クラスの風紀を守るためよ。いいわね?」


(((((((((((((((((((((((((((((((言えた! 言えたわ凛花!! これで当日はずっと一緒よ!! 佐藤くんが他の女と一言でも喋ろうものなら、私がその間に割って入って、氷の微笑(絶対零度)で相手を分子レベルまで分解してあげる!! 彼は私だけのもの……私だけの佐藤くんなんだからあああ!!))))))))))))))))))))))))))))


独占欲が「分子レベル」まで到達している。

 僕は彼女のあまりに極端な(脳内の)訴えに、思わず小さく吹き出してしまった。


「……何が可笑しいのかしら。私は真剣よ」


「いや、ごめん。……神代さんが僕のことをそんなに心配してくれてるなんて、嬉しいなと思って」


「……っ!」


神代さんは手に持っていたフォークをガチャン、と皿に落とした。

 彼女は顔を伏せ、耳まで真っ赤にしながら、震える声で言い放った。


「……うぬぼれないで。私はただ、無能なパートナーの尻拭いをしたくないだけ。……帰るわ。セバス、荷物を!」


((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア(音割れ臨界点)!!!!! 「嬉しい」!? 彼、今「嬉しい」って言った!? しかも私を「神代さん」じゃなくて「君」……いえ、名前で呼ぶ日も近いわよね!? ああああ、心臓が爆発する! 今すぐ神代グループの全社屋に、今日の彼の発言を社訓として掲示させなきゃ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))


社訓にされたらたまったもんじゃない。

 彼女は嵐のように調理実習室を去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、僕は自分の指の絆創膏をそっと撫でる。


彼女の心の声は、いつだって爆音で、激しくて、そして——。

 驚くほど、一途だ。


「……僕も、楽しみだよ。学園祭」


誰もいない実習室で、僕はそっと呟いた。

 たとえ当日、彼女の嫉妬で学園が氷河期に突入することになったとしても、隣に彼女がいるのなら、それはそれで悪くないかもしれない。


こうして、二人の「初めての共同作業」は、甘いチョコペンの味と共に幕を閉じた。

 しかし、これが嵐の前の静けさであることを、この時の僕はまだ知らなかった。

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