第3話 不器用な令嬢は、全力で僕をサポートしたい
週が明け、学園は「中間テスト二週間前」という、生徒たちにとって一年で最も憂鬱な空気感に包まれていた。
この時期、図書室や自習室は席の奪い合いになる。僕のような平凡な生徒にとって、家以外で集中できる場所を確保するのは至難の業だ。
「はぁ……。どこも満席か」
放課後、ノートを抱えて廊下を歩いていると、背後から冷たい、けれどどこか聞き覚えのある声が僕を引き止めた。
「……何をしているの、佐藤くん。そんな情けない顔をして徘徊して。幽霊のオーディションにでも行くつもり?」
振り返れば、そこには腕を組み、不機嫌そうに僕を見下ろす神代さんの姿があった。
相変わらずの「氷の令嬢」モード全開だ。だが、僕の脳内では――。
(((((((((((((((キタアアアア!! 佐藤くんの「困り顔」!! 守りたい、この母性本能をくすぐる弱った小動物のような表情! 絶滅危惧種に指定して私が24時間体制で保護したい!! どうしたの!? 何があったの!? 誰にイジめられたの!? 私がそいつを神代グループの総力を挙げて社会的に抹殺してあげましょうか!?))))))))))))))
抹殺はやめてほしい。ただ席がないだけなんだ。
僕は苦笑いしながら、手元の参考書を見せた。
「いや、テスト勉強をしようと思ったんだけど、自習室がどこもいっぱいでさ」
「……ふん、計画性のないこと。貴方らしいわね」
神代さんは鼻で笑うと、少しだけ視線を泳がせてから、ぶっきらぼうに続けた。
「……ちょうど、私が使っている特別自習室が空いているわ。一席くらいなら貸してあげてもいいけれど。……あ、勘違いしないで。貴方が赤点を取って隣の席から消えると、私の視覚的環境が乱れるからよ」
((((((((((((((((((((誘ったあああああああ!! 誘えたわ凛花!! 「特別自習室」という名の、学校から寄贈された実質的な私の個室に!! 二人きり! 密室! 合法的なお勉強デート!! ありがとう中間テスト! ありがとう赤点という概念!! 早く来て佐藤くん! 私の隣で、君のシャープペンの芯が折れる音さえ聖歌のように聞き惚れていたいからあああ!!))))))))))))))
勉強に集中できる気が全くしないが、彼女の「聖歌」発言をスルーして、僕は大人しく彼女の後をついていくことにした。
案内された「特別自習室」は、もはや教室というよりは高級ホテルのラウンジだった。
重厚な革張りの椅子、磨き上げられたマホガニーのデスク。そして、なぜか部屋の隅にはセバスチャンさんがスタンバイしており、僕が座るなり無言で最高級のカフェオレを差し出してきた。
「……すごいね、ここ」
「当然よ。神代家に相応しい環境でなければ、脳細胞が腐ってしまうわ」
神代さんは僕の斜め前の席に座り、優雅に数学のワークを開いた。
だが、ペンは一向に動かない。
((((((((((((((((((((((集中できない! 集中できるわけないじゃない!! 斜め45度から見る佐藤くんの、この集中している時の真剣な眼差し! まつ毛に止まって一生を終えたい……! 待って、佐藤くんがいま数学の問題で詰まってる!? あの眉間のシワ、最高にセクシーだけど、それ以上に助けてあげたい! 私の数学力を見せつけるチャンスよ!!)))))))))))))))))
確かに、僕は今、数IIの微積の問題で行き詰まっていた。
すると、神代さんが立ち上がり、僕の背後に回った。
ふわっと、彼女から清楚な石鹸のような香りが漂う。
「……どきなさい。貴方のその原始的な解き方、見ていて反吐が出るわ」
彼女は僕の手からシャーペンを奪うと、ノートの余白に淀みのない数式を書き込み始めた。
「ここは公式をそのまま当てはめるんじゃなくて、まず図形として捉えなさい。そうすれば、こんな計算、三秒で終わるわ。わかった?」
外面は相変わらず「指導」という名の「説教」スタイル。
だが、教え方は驚くほど丁寧で、僕の理解に合わせて言葉を選んでいるのがわかった。
「……なるほど。神代さん、教えるの上手いんだね」
僕が顔を上げて彼女を見ると、あまりの至近距離に、神代さんの瞳が大きく揺れた。
((((((((((((((((((((((((((近い近い近い近い近い近い!! 吐息がかかる! 佐藤くんの吐息が私の肌に! これ、実質的にキスじゃない!? いま私、世界で一番幸せな数学教師役を演じてるわ!! 褒められた! 上手いって言われた! もう数学の公式全部捨てて、佐藤くんへの愛の公式だけを脳に刻み込みたい!!))))))))))))))))))))
神代さんは顔を真っ赤にして、弾かれたように距離を取った。
「……当、当然よ! 私を誰だと思っているの。……さあ、続きをやりなさい。次は英語よ。貴方のその惨めな語彙力を、私が徹底的に叩き直してあげるわ」
((((((((((((((((((((((もっと話したい! もっと頼って! 貴方の教科書に載っている英単語、全部私の愛のささやきに書き換えてあげたいくらいよ!!)))))))))))))))))
彼女の「本音」はもはや勉強の域を越えていたが、おかげで僕のノートは、彼女の綺麗な文字と、僕への溢れんばかりの(内面的な)応援で埋め尽くされていった。
集中して勉強を始めてから、二時間が経過した。
特別自習室には、カリカリとペンを走らせる音と、時折響く神代さんの「……はぁ、ため息が出るほど無能ね」という辛辣なツッコミだけが流れている。
だが、僕の脳内は相変わらず彼女の歓喜の歌で満杯だった。
(((((((((((幸せ……。静寂。二人きり。佐藤くんが私の隣で、私の教えを守って問題を解いている……。この時間、永遠に続いてほしい。神様、もし願いが叶うなら、この部屋の時計の針を全部接着剤で固定して、外の世界の時間を止めてしまって!!))))))))))
時計を壊すのは勘弁してほしい。セバスチャンさんが困る。
ふと、ノートを取っていた僕の指先に、チクリとした痛みが走った。
「あ……」
見れば、シャーペンの使いすぎで指の皮が少し剥け、血が滲んでいた。大した傷じゃない。けれど、それを見逃す「隣の視線」ではなかった。
「……何をしているの。机を汚さないでくれるかしら、不潔だわ」
神代さんは素早く立ち上がると、僕の隣に膝をついた。
(((((((((((((((((((((大変!! 佐藤くんが負傷した!! 聖なる指先から尊い血液が!! 私のせいよ、私が熱血指導をしすぎたせいだわ! 救急車!? ドクターヘリ!? いえ、まずは私が応急処置を……あああ、彼の指に触れる口実ができたなんて不謹慎だけど、私の心臓がサンバを踊りだしたわ!!))))))))))))))))))))
サンバを踊っている暇があったら消毒してほしい。
神代さんはどこから取り出したのか、小さな救急箱を広げた。彼女の手はわずかに震えている。
「動かないで。雑菌が入ったら、貴方のその数少ない脳細胞まで腐り落ちるわ」
そう言って、彼女は僕の右手をそっと自分の両手で包み込んだ。
冷たい印象の彼女だったけれど、その手は驚くほど熱かった。
「……神代さん、自分でできるから大丈夫だよ」
「黙りなさい。……大人しく、私の処置を受けなさい」
(((((((((((((((((((((((柔らかい……。佐藤くんの手、温かくて、大きくて……。包み込むだけで、私の魂が浄化されていく感覚がする。離したくない。このまま指を絡めて、一本ずつ丁寧に絆創膏(愛の封印)を貼らせて……。ああ、私、今、人生で一番神に近い場所にいる気がする……))))))))))))))))))))
彼女は真剣な表情で、傷口を消毒し、これでもかというほど丁寧にキャラクターものの絆創膏を貼ってくれた。
外面の彼女は「ふん、これでせいぜい感謝しなさい」と言わんばかりの冷徹な顔をしているが、至近距離で見えるその耳たぶは、茹でた海老のように真っ赤だった。
「ありがとう。……これ、猫の柄なんだね。神代さん、可愛いもの好きなの?」
僕が絆創膏を見て微笑むと、神代さんは弾かれたように立ち上がった。
「……べ、別に好きじゃないわ! それはセバスの趣味よ! 勘違いしないで!」
((((((((((((((((((((((((((バレた!! 私の猫好きがバレた!? 違うの、それは昨日、佐藤くんに万が一のことがあった時のために、サンリオショップを三軒ハシゴして一番可愛いのを選んだなんて口が裂けても言えないわ!! 「可愛い」って言われた! 私のこと!? 絆創膏のこと!? どっち!? どっちにしても私はもう明日、この世にいないかもしれない(尊死)!!))))))))))))))))))))
尊死(とうとし)されては困る。
神代さんは乱暴に荷物をまとめると、僕に背を向けて出口へと歩き出した。
「……今日はもうおしまいよ。これ以上貴方の無能に付き合っていたら、私のIQまで下がるわ。……帰りなさい。車を回させるから」
「あ、うん。……神代さん」
僕が呼び止めると、彼女はドアノブを掴んだまま、振り返らずに足を止めた。
「あのさ。テスト勉強、明日もここで一緒にやってもいいかな?」
一瞬、部屋が静まり返った。
神代さんの肩が、小さく、けれど激しく震えた。
(((((((((((((((((((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア(音割れMAX)!!!!!!!!! 明日も!? 「一緒に」って言った!? 佐藤くんから誘ってくれた!? 予約!? 永久指名!? 婚姻届、セバス! いますぐ市役所に特攻して!! 私、今夜は一秒も眠らずに、明日の予習と彼への告白シミュレーションを5万回繰り返すわ!!)))))))))))))))))))))))))))))))))
……また5万回もやるのか。彼女の睡眠不足が本気で心配だ。
神代さんは、低く、冷淡な、けれど少しだけ裏返った声で答えた。
「……許可してあげるわ。……ただし、遅刻したら、神代グループの刑務所へ放り込むから。覚悟しておきなさい」
そう言い捨てて、彼女は嵐のように部屋を去っていった。
バタン! と閉まったドアの向こうから、「やったあああああ!」という絶叫が(物理的に)聞こえてきた気がしたけれど、僕はあえて聞かなかったことにした。
僕は自分の指に貼られた、不釣り合いに可愛い猫の絆創膏を見つめた。
氷の令嬢、神代凛花。
彼女の「本音」という名の爆音は、どうやら僕の心をも、少しずつ、けれど確実に揺らし始めているようだった。
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