第2話 お屋敷の嵐と、朝の「おはよう」
「……ふぅ、ごちそうさま。本当に美味しかったよ」
ケーキを食べ終えた僕がそう言うと、神代さんはフンと鼻で笑い、優雅にティーカップを置いた。
「当然よ。貴方の貧相な味覚が少しは改善されたかしら。……セバス、彼を玄関まで送りなさい。見ているだけで調子が狂うわ」
(((((((((((帰りたくない! 佐藤くん帰らないで!! いま、彼が飲み干したカップの縁(ふち)を鑑定して、DNAからクローンを作って毎日「おかえり」って言ってもらいたいレベルで離れたくない! でもこれ以上一緒にいたら、私の心臓が物理的に肋骨を突き破って彼にプロポーズしちゃう! ああ、行かないで、でも早く行って! 私の理性が保てない!!))))))))))
クローンは倫理的にアウトだし、心臓のプロポーズは怖すぎる。
僕はセバスチャン(仮)さんに促され、逃げるようにリムジンへ乗り込んだ。別れ際、神代さんは一度もこちらを振り返らなかったが、脳内では「佐藤くんの残像を網膜に焼き付けろ!」と自分に命令する絶叫が、車が門を出るまで響き渡っていた。
翌朝。
僕は少し重い足取りで教室へ向かった。
昨日の「拉致事件」はすでに学園中の噂になっているはずだ。
「おい、佐藤……お前、生きてたのか」
「神代さんに消されたんじゃなかったのかよ」
教室に入った瞬間、クラスメイトたちから同情と畏怖の混じった視線が刺さる。
そんな喧騒の中、彼女はいつもの席に座っていた。
窓から差し込む朝日に照らされた横顔は、やはり神々しいほどに美しい。
「……おはよう、神代さん」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向き、冷徹な視線で僕を射抜いた。
「……また貴方ね。朝から不愉快だわ。私の視界に入らないでもらえるかしら」
((((((((((((((きったあああああああああああ!!!! 朝イチの「おはよう」きたああああ!! 佐藤くん、ちょっと寝癖ついてる! 可愛い! 破壊的! そのハネた髪の毛一本だけで、私は白米三杯いけるわ! ああ、神様仏様佐藤様、私に挨拶してくれてありがとう! 今日の私は無敵よ! 宇宙だって救える気がする!!))))))))))
髪の毛一本で白米を食べるのはやめてほしい。
僕は苦笑いしながら、昨日もらったミサンガをさりげなく手首に巻いているのを見せた。
「これ、早速つけさせてもらったよ。ありがとう」
神代さんの瞳が、わずかに見開かれる。
彼女は顔を背け、耳まで真っ赤にしながら吐き捨てた。
「……物好きね。そんなゴミ同然の紐、さっさと捨てればいいのに。私の品位まで疑われるわ」
(((((((((((((つけてる……! つけてくれてる!! ああああああ!! 私の愛の結晶(物理)が彼の肌に直接触れている!! 実質的に、私と佐藤くんは常に繋がっていると言っても過言ではないわよね!? そうよね!? 婚姻届、どこ!? 婚姻届持ってきてセバス!! いまここで受理させるから!!))))))))))
まだ高校生だから婚姻届は早いし、セバスさんは学校にはいない。
だが、彼女のあまりの喜びように、僕の胸も少しだけ温かくなる。
一時間目の授業中。
ノートを取る僕の横で、神代さんは微動だにせず黒板を見つめていた。
だが、僕にはわかる。彼女の意識は、100%こちらに向いている。
(((((((((((((見たい……。横を向いて佐藤くんの横顔をじっくり堪能したい……。彼のまつ毛の長さ、毛穴の数まで数え上げたい……。でもダメよ凛花! 今ここで彼を見つめたら、私の「氷の令嬢」としてのキャラが崩壊する! 耐えろ、耐えるのよ! 集中するのよ、この二次関数のグラフが佐藤くんの微笑みのカーブに見えてきた……ああ、尊い……))))))))))
二次関数に僕を重ねるのは無理があると思う。
すると突然、教壇に立つ数学教師が声を張り上げた。
「おい、佐藤。ここ、解いてみろ」
指名されたのは僕だった。
しまった、彼女の心の声にツッコミを入れすぎていて、全く話を聞いていなかった。
黒板には、見たこともない複雑な数式が並んでいる。
「ええと、それは……」
僕が言葉に詰まると、周囲から「やっぱり佐藤、昨日ので脳をイカれたか」と冷やかしの声が上がる。
その時だった。
「……貸しなさい。鈍間(のろま)ね」
神代さんが立ち上がり、僕の手からチョークをひったくった。
彼女は迷いのない手つきで、スラスラと正解を書き込んでいく。
「先生。こんな基礎的な問題で、彼の貴重な思考時間を奪わないでいただけますか? 目障りだわ」
クラスが静まり返る。
神代さんが、誰かを「庇った」……?
先生も気圧されて「あ、ああ……そうだな。座れ、神代」と頷くしかない。
神代さんは不機嫌そうに席に戻り、僕にだけ聞こえるような小さな声で毒づいた。
「……勘違いしないで。貴方が無能だと、隣にいる私の価値まで下がるのよ」
((((((((((((((助けた! 助けちゃった! 佐藤くんのピンチを、私の華麗な知性で救って差し上げたわ!! 今の私、かっこよかったかしら!? 惚れた!? 惚れ直した!? 佐藤くん、いまなら私、貴方のどんな要求でも飲むわよ! さあ、私を抱きしめて「僕のヒーローだ」って言ってえええええええ!!))))))))))
……流石に教室で抱きしめる勇気はない。
でも、僕は机の下で、そっと彼女に聞こえるように囁いた。
「助かったよ。やっぱり、神代さんは優しいね」
「……っ!」
神代さんの肩が跳ねた。
彼女は両手で顔を覆い、そのまま机に突っ伏してしまった。
(((((((((((((((((((((アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア(音割れ)!!!!!!!!!!!!))))))))))))))))))))))
……脳内がホワイトノイズで埋め尽くされた。
どうやら、彼女の心の許容量(キャパシティ)を超えてしまったらしい。
氷の令嬢が、僕の言葉ひとつで真っ赤になって動かなくなる。
その様子を眺めながら、僕は「この能力、案外悪くないな」と密かに思うのだった。
昼休みの間中、神代さんはずっと机に突っ伏したままピクリとも動かなかった。
クラスメイトたちは「佐藤が神代さんに呪いをかけられた」とか「ついに神代さんの逆鱗に触れて物理的に凍結された」とか勝手なことを言っていたけれど、僕だけは知っている。
彼女は今、脳内で今日の出来事を1フレ単位でリプレイし、のたうち回っているのだ。
((((((((((優しい、って。優しいって言われた……! あの佐藤くんが、あの至近距離で、あの国宝級のイケボで! 無理無理無理! 寿命が300年縮んだわ! 今すぐこの学校の全教室にスピーカーを設置して、今の彼の声をエンドレスで流したい! 聖徳太子だって聞き惚れるレベルの聖音(きよね)だったわよ……!))))))))))
聖徳太子を巻き込むのはやめてほしい。
そんな騒がしい放課後、僕は図書委員の仕事で図書室にいた。
静寂が売りの図書室なら、少しは彼女の「爆音」から解放されるかと思ったのだが――。
「……また貴方なのね。どこまで私を追ってくれば気が済むのかしら。ストーカーとして訴えてもいいのよ?」
本棚の陰から、氷のような冷気をまとった神代さんが現れた。
その手には、なぜか分厚い『世界の歴史』の図鑑が握られている。
(((((((((((((((((来たあああ!! 図書室! 静寂! 二人きり! 完璧なシチュエーションじゃない! ストーカーだなんて嘘よ、本当は私こそが貴方の影になり日向になり、24時間365日監視……じゃなくて見守っていたいの! この図鑑、重いわ……でも佐藤くんの前で筋トレの成果(?)を見せなきゃ!))))))))))))))
彼女はプルプルと震える腕で、必死に「重くないフリ」をしながら僕の隣に立った。
僕は黙ってその図鑑を受け取り、元の棚に戻してあげる。
「無理しなくていいよ。これ、結構重いから」
「……余計なお世話よ。私一人で十分に運べたわ。貴方は自分の心配だけしていればいいのよ」
((((((((((((((((((((あああああああああ!! 取られた! 私の図鑑が佐藤くんの手に! 手と手が触れた! 0.1秒の奇跡! 彼の指、細くて綺麗なのに男の子らしい節(ふし)があって……抱かれたい! その指に一生絡め取られて窒息死したい!! 私の指、今すぐ佐藤くん仕様にアップデートして!!))))))))))))))
……お願いだから静かにしてほしい。図書室なんだ。
僕は彼女の視線を避けるように、本の整理に戻った。
すると、神代さんが僕の背中に向かって、消え入りそうな声で言った。
「……佐藤くん。貴方、その……昨日のお茶、不味かったかしら」
「えっ?」
意外な言葉に振り返ると、神代さんは棚の本をデタラメに指でなぞりながら、顔を背けていた。
「別に、貴方の感想なんてどうでもいいのだけど。セバスが、貴方がもし満足していなかったら、自分の首を撥ねる(はねる)って騒いでいるから、仕方なく聞いてあげているだけよ」
((((((((((((((((((((嘘よ! 私が聞きたいの! 私が淹れた紅茶(※実はセバスに習って内緒で練習した)がどうだったか、不安で昨日は一分しか眠れなかったの! 美味しくなかったらどうしよう、私の女子力がミジンコ以下だと思われたら……ああ、怖い! 佐藤くんの口から「嫌い」なんて言葉が出たら、私は今すぐこの図鑑に挟まって押し花になって消えてやる!!))))))))))))))
一分しか寝ていないのか。通りで、少しだけ目の下にクマがある。
僕は彼女のまっすぐな(内面の)想いに応えるべく、はっきりと言った。
「すごく美味しかったよ。あんなに香りがいい紅茶、初めて飲んだ。淹れてくれた人に、ありがとうって伝えてくれるかな」
神代さんの指が、ピタリと止まった。
彼女はゆっくりと僕の方を向き、その白い頬を林檎のように赤く染めた。
「……そう。セバスに伝えておくわ。貴方の舌も、たまにはまともな判断をするのね」
((((((((((((((((((((((((((((伝わったああああああああああ!! 私の愛のダージリンが彼の胃袋を掴んだわ!! ありがとうセバス! ありがとうインドの茶葉農家の人たち! 私は今、世界で一番幸せな不器用令嬢よ!! 淹れてくれた人って、それ私のことだって気づいてる!? ねえ気づいてる!? 大好き! 愛してる! 結婚して! むしろ私が佐藤くんになって自分を抱きしめたい!!))))))))))))))))
後半の理論が崩壊しているけれど、彼女の喜びは僕の脳内を暖かく満たした。
神代さんは、スカートの裾をぎゅっと握りしめ、最後にポツリと呟いた。
「……また、来なさい。今度は、もっとマシな菓子を用意させておくから」
「うん。楽しみにしてるよ」
彼女は「フン!」と勢いよく背を向けて、モデルのような歩調で図書室を去っていった。
バタン、とドアが閉まる。
静寂が戻ってきたはずの図書室。
けれど、僕の耳にはまだ、彼女の歓喜の絶叫が残響のように鳴り響いていた。
不器用すぎる令嬢。
外面はマイナス30度。
内面は、沸騰したヤカンより熱い100万度。
僕は自分の手首に巻かれたミサンガをそっと撫でた。
……どうやら、この「心の声」という名の爆音は、しばらく止みそうにない。
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