第3話 最初からいない

 反射像が、別の服を着ていた。


 マンションの廊下の窓に映る自分が、白いシャツを着ていた。悠は紺のシャツを着ていた。反射像は止まらなかった。悠が止まっても、そのまま廊下の奥へ歩いて消えた。


 427号室に入った。誰もいなかった。


 机に紙があった。白紙だった。光の角度を変えると、筆圧の跡があった。文字の形だったが読めなかった。紙を手に取った。温かかった。インクの匂いがした。


 壁に手をつけた。脈打っていた。鼓動のリズムが、悠の心臓より少し速かった。


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 翌朝、会社のシステムにログインできなかった。


 IDが存在しないと表示された。総務の担当者がデータベースを検索した。もう一度検索した。上司を呼んだ。「このIDで登録がないですね」


 七年間、同じIDを使っていた。


 同僚に声をかけた。「高橋さん」と呼ぶと振り向いた。悠の手前を見た。悠の顔ではなく、悠が立っている場所より少し手前の空間を見ていた。


 打ち合わせ室に入った。六人いた。全員がこちらを向いた。進行が始まった。発言した。メモを取った。一時間後に終わった。


 議事録の参加者欄に、悠の名前はなかった。


 タイムスタンプを確認した。打ち合わせが終わる前の時刻に、悠の入室記録がついていた。


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 大江戸線の新宿西口駅、最深部のホーム。


 乗った記憶がなかった。気づいたらそこに立っていた。


 足音が吸収された。靴底がコンクリートに当たる音が、出た瞬間に消えた。声を出してみた。口の前で止まった。反響しなかった。広がらなかった。


 空気が甘かった。肺の奥に溜まるような、密度のある甘さだった。


 ホームの向こう端に、反射像がいた。悠と同じ顔だった。服が悠と同じだった。しかし立ち方が違った。背筋が伸びていた。疲れていなかった。


 悠は歩いた。距離が縮まらなかった。十歩歩くと、向こう端が遠くなっていた。ホームが伸びていた。


 反射像はスマートフォンを見ていた。画面の光が顔に当たっていた。悠のスマートフォンは、ポケットの中にあった。


 電車が来た。風圧があった。反射像が乗った。ドアが閉まる直前、反射像が顔を上げてこちらを見た。表情がなかった。確認するような目だった。ドアが閉まった。電車が消えた。


 ホームに一人残った。


 影を見た。


 影が改札へ向かっていた。床に落ちた影が、独立して動いていた。改札機に触れた。センサーが反応した。音がした。通過した。


 YUME-APPを開いた。このホームの俯瞰映像が映っていた。カメラの位置がわからなかった。天井を見た。カメラがなかった。


 映像の中に人間が一人立っていた。今の悠の位置と重なった。


 映像の時刻が、三十分前だった。


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 住民票を取りに行った。


 「高橋悠様のご登録は、当区には存在しておりません」


 生年月日を告げた。旧住所を告げた。担当者が検索するたびに首を振った。


 外に出た。東京の昼間だった。


 人が歩いていた。車が走っていた。ビルが立っていた。


 右手が重かった。濡れた砂の重さが、肘まで上がっていた。指を開いても、何もなかった。


 YUME-APPを開いた。渋谷のサイネージが映っていた。


 ≪東京は夢を見る街です。≫


 今日の日付が入っていた。


 悠はスマートフォンをしまった。歩き始めた。


 交差点が待っていた。


 窓が見ていた。


 ネオンがページをめくっていた。


 街だけが、続きを書いていた。



 -- 完 --

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夢喰い東京 月夜 宴 @Spooky00

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