第58話 再会
「ルネ所長、お疲れ様です」
「お疲れさま、クレア」
研究所の廊下を歩きながら、すれ違った助手に挨拶を返した。
王立魔法研究所。
あれから十年が経った。
リアンが消えた夜から、十年。
わたしは魔法研究所の所長になっていた。闇属性の術者が所長になるのは、王国史上初めてのことだったと、就任のときに言われたけれど、どうでもよかった。リアンを取り戻すための環境と権限が必要だったから、所長になった。それだけだ。
研究室に入った。
部屋の中央に、巨大な術式陣が展開されていた。
床に刻まれた魔法陣。十年かけて作り上げたものだった。擬似ブラックホールの理論を応用して、時間軸に干渉するための術式陣だ。
「ついにだな」
後ろから声がする。振り返ると、エドヴァルトがいた。
「ええ、エドヴァルト」
「あれからお互い年を取った」エドヴァルトが言った。「あなたは所長になった。わたしは公爵になってしまった」
「公爵がこんな場所で油を売っていていいわけ?」
「何を言う。ついにこの日が来たと言うのに」エドヴァルトが術式陣を見た。「この日のために、十年かけた」
「そうね」
「魔力の最終調整は終わったか」
「昨夜、終わった」
エドヴァルトが頷く。
十年間、エドヴァルトが一番そばにいてくれていた。
公爵家の仕事をこなしながら、時間を作っては研究に加わってくれた。「わたしも取り戻したい人間がいる」とだけ言って、理由を詳しく言わなかった。でも、それで十分だった。
「あなたがいなかったら、この理論は完成しなかった」とわたしは言った。
「あなたが諦めなかったから完成した」とエドヴァルトが言った。「わたしはそこにいただけだ」
「いただけ、ではない」
「……まあ、いい」エドヴァルトが術式陣を見た。「あれから十年、あなたは一度もリアンの名前を口にしなかった」
「そうね」
「なぜだ」
「口にしたら、感情が追いついてくる気がして」とわたしは言った。「研究中は感情を制御していた方がいいと思っていた」
「今日は」
「今日は言える」とわたしは言った。「リアン、待っていなさい」
声に出した。
十年ぶりに、その名前を声に出した。
頭の中で何百回も呼んだ。でも声に出したのは、あの夜以来だった。
「遡行先は、あの夜でいいんだな」エドヴァルトが確認した。「リアンが部屋を出ていった夜」
「そう。わたしが眠っている間に、リアンが出ていく前の時間に戻る。間に合わせる」
「戻った後は」
「引き留める」
「引き留めるだけで、いいのか」
「それだけよ」とわたしは言った。「あの夜、少し早く目が覚めていれば——それだけでよかった。派手なことは何もいらない。隣にいるだけで、よかった」
エドヴァルトが黙っていた。
「……わかった」とエドヴァルトが言った。「行ってこい」
術式陣の中心に立った。
魔力を練り始めた。
十年間、この瞬間のために積み上げてきた魔力だった。擬似ブラックホールを、精密に、時間軸に向けて展開する。空間の収束を、空間ではなく時間に向ける。かつてシリルに「コイン一枚サイズ」と言っていたものが、今は時間そのものを収束させるほどになっていた。
術式が光り始めた。
床の魔法陣が、青白く輝いた。
「ルネ」とエドヴァルトが言った。
「なに」
「じゃあ、また」
「……ええ」
視界が歪んだ。
時間が、収束した。
暗転した。
暗闇の中を落ちて、感覚が消えた。
感知を展開しようとした。でも、展開する空間がなかった。
何もない場所を、ただ移動していた。
どのくらい経ったか、わからなかった。
光が見えた。温かかった。
目が開くと、天井だった。
いつもの天井だった。
二人部屋の天井だった。
夜だった。
静かだった。
感知を展開する。隣に、気配があった。
あった。あった。
「……」
頭を向けると、リアンが眠っていた。
同じベッドで、隣にいた。手が繋がれていた。
十年前の夜だった。
読み聞かせをして、手を繋いで、眠りについた夜だった。
リアンがいた。
いた。
隣にいた。
体が動いた。
考える前に動いた。
リアンの手を掴んだ。
両手で掴んだ。
ベッドから上半身を起こした。
「……リアン」
声が震えた。
リアンが目を開けた。
寝ぼけた顔だった。ゆっくりと焦点が合った。
「お姉様?」
わたしの顔を見て、少し首を傾けた。
「どうしたんですか? お姉様」
引き起こして、抱きしめた。
両腕で、全力で抱きしめた。
リアンの体温。いつもの体温だった。干渉実験で何度も触れた体温だった。廃工場の廊下で支えたときの体温だった。
十年間、決して触れることのできなかった温度だった。
「お、お姉様?」
リアンが戸惑っていた。でもわたしの腕を押し返さなかった。
「リアン」
「はい」
「リアン」
「はい、います、ここにいます」
「……リアン」
三度呼んだ。
十年分の感情が、溢れてきた。
泣き声が、喉の奥から出てくる。
今度は声が出た。あの夜は声が出なかった。でも今夜は出た。
「お姉様、どうしたんですか、泣いていますよ、お姉様が泣いているのは珍しい、どこか痛いですか、怖い夢でも、お姉様、お姉様——」
リアンが慌てていた。
背中に腕が回ってきた。
抱き返してくれた。
「ここにいますよ」とリアンが言った。「お姉様、ここにいます」
「……わかっている」
「では、どうして」
「十年間、いなかった」とわたしは言った。
「え?」
「あなたがいなかった。十年間、どこにもいなかった」
「何を言っているんですか、お姉様、さっきまで一緒に——」
「あなたは知らない」とわたしは言った。「でも、十年間、ずっとあなたを探していたの」
リアンが黙っていた。
何を言っているのか、わからないはず。今のリアンには、まだ何も起きていなかった。何も失っていなかった。
でも、わたしには十年あった。
「今夜」とわたしは言った。「どこにも行かないで」
「え?」
「眠った後で、出ていこうとしていたわね」
「……どうして、それを」
「知っているから」とわたしは言った。「行かないで。今夜だけでいい。今夜は、ここにいて」
リアンが黙っていた。
「お姉様」
「なに」
「……わかりました」とリアンが言った。「今夜は、行きません」
「約束して」
「約束します」
「……ありがとう」
抱きしめたまま、動かなかった。
リアンも動かなかった。
背中に回った腕の力が、少し強くなった。
「お姉様が泣いているのは」とリアンが小声で言った。「珍しいです」
「そうね」
「よほどのことがあったんですね」
「そうね」
「いつか、教えてもらえますか」
少し間があった。
「いつか」とわたしは言った。「全部話す」
「約束ですよ」
「約束よ」
窓の外に、月が出ていた。
白かった。
暗い空の中で、白く光っていた。
「お姉様」
「なに」
「手、繋いでいいですか」
「もう繋いでいる」
「そうでした」とリアンが言った。少し笑った気がした。「では、このままでいましょう」
「そうね」
「今夜は蹴り飛ばしません」
「根拠がない」
「今夜は本当に大丈夫です」
「……そうしなさい」
リアンの呼吸が、少しずつ深くなっていった。
眠りについていた。
今度は、起きたときにいなくなっていない。
約束した。
今夜は、いる。
「……よかった」とわたしは言った。
誰も聞いていなかった。リアンは眠っていた。
でも言った。
十年間、言えなかった言葉を言った。
「やっと、会えた」
月が光っていた。
手の中に、リアンの手があった。
温かかった。
両方、温かかった。
翌朝、目が覚めた。
手の中に、温かいものがある。
「お姉様、おはようございます」
リアンが起きていた。
わたしが目を覚ますのを、待っていたのかもしれなかった。
「……おはよう」
「昨夜は、大変でしたね」
「そうね」
「教えてもらえますか、今日」
「今日は難しい」とわたしは言った。「でも、いつか必ず話す」
「わかりました」リアンが言った。「ではわたしは待ちます」
「待てる?」
「お姉様のためなら」とリアンが言った。「いつまでも」
朝の光が差し込んでいた。
「リアン」
「はい」
「今日も、ここにいる?」
「います」とリアンが言った。「どこにも行きません。約束しましたから」
「そうね」
「お姉様こそ」
「わたしも、ここにいる」
「約束ですか」
「約束よ」
リアンが笑った。
いつもの笑い方だった。
目元に表情が出る笑い方だった。
十年間、見たくても見られなかった笑い方だった。
「お姉様」
「なに」
「抱きしめてもいいですか」
「昨晩抱きしめていた」
「改めて、したいんです」
少し間があった。
「……好きにしなさい」
リアンが抱きついてきた。
温かかった。
朝の光の中で、そのあたたかみを確かめるように、抱いていた。
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