第57話 待っていて
「ルネ」
エドヴァルトが来た。廊下の向こうから歩いてきた。顔が、いつもと違った。何かを抑えている顔だった。
「おはよう」とわたしは言った。
「……おはよう」エドヴァルトが少し間を置いた。「体の調子は」
「悪くない。ただ」
「ただ」
「記憶が、少し霞んでいる。昨夜何があったか、よく覚えていない」
エドヴァルトが止まった。
「……そうか」と言った。
「何かあったのね」
「……あった」
「教えてくれる」
エドヴァルトが少し間を置いた。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「リアンは」
「リアン?」
「リアン・ド・クロワール」
わたしは少し考えた。
「……誰かしら、それは」
エドヴァルトが、止まった。
完全に止まった。
「……忘れてしまったのか」
「知らない。わたしの知り合いに、そういう名前の人間はいないと思う。なぜ聞くの」
エドヴァルトが黙っていた。
目が、赤くなっている。
「……何でもない」とエドヴァルトが言った。「少し、聞いてみただけだ」
「そう」
「今日は、研究室にいるか」
「そのつもりよ。何か用があれば来て」
「わかった」
エドヴァルトが踵を返す。
その背中が、いつもより小さく見えた気がした。
研究室に入った。
机があった。文献が積まれていた。いつも通りの景色。
椅子を引いた。座った。
文献を開いた。
でも、頭に入らなかった。
何かが、欠けているのだ。
何が欠けているのかが、わからなかった。でも確かに、何かがなかった。
向かいの椅子を見た。
空。
この椅子に、誰かが座っていた。
誰かが来ていた。
誰が来ていたのか、出てこなかった。
けれど、無視できない空白が、確かにそこにはあった。
「……」
文献を閉じて立ち上がり、部屋の中を見回した。
茶器が二つあった。わたしのものが一つ。もう一つが、誰かのものだった。
誰のものか、出てこなかった。
窓を開けた。
中庭が見えた。
月見石があった。白かった。午前の光の中で、静かに光っていた。
あの石の前に、立ったことがあった。
誰かと一緒に立ったことがあった。
誰と一緒だったか、出てこなかった。
昼になった。
エドヴァルトが来た。
「食事を持ってきた」
「ありがとう」
「一緒に食べていいか」
「ええ、いいわよ」
二人で食べた。
エドヴァルトがいつもより静かだった。
「エドヴァルト」
「なに」
「今朝聞いた名前」とわたしは言った。「リアン、という」
エドヴァルトの手が止まった。
「覚えているか」
「名前は聞いたことある気がする。人物が出てこないけど」とわたしは言った。「でも、何かが引っかかっている。その名前を聞いたとき、胸のあたりが痛かった」
「……そうか」
「知っている人間なの?」
エドヴァルトが少し間を置いた。
「……わたしは知っている」とエドヴァルトが言った。「でも、今は話せない」
「なぜ」
「今は、話せない」
それ以上聞かなかった。
食事を終える。
「また来る」とエドヴァルトが言った。「何かあれば連絡してくれ」
「わかった」
エドヴァルトが出ていった。
一人になった。
胸のあたりが、ずっと重かった。
何かが欠けている感覚。
夕方、部屋に戻って、荷物を置いた。
何気なく、上着のポケットに手を入れる。
何かが、あった。
取り出すと、小さな丸い石だった。
月見石に似た、でもそれより小さい石だった。
手のひらに乗せた。
知っている石だった。
どこで手に入れたか、出てこなかった。でも知っていた。大切にしていた。ずっと持ち歩いていた。
「……」
もう一方のポケットに手を入れた。
また石があった。
同じ形の石だった。でも、こちらは少し冷たかった。あちらは温かかった。
二つ、あった。
同じ形の石が、二つ。
一つは自分のものだった。もう一つは——
「……誰かの」
声に出した。
誰かのものだった。
でも誰のものか、出てこなかった。
二つの石を、手のひらに並べた。
対になっていた。
お揃いで持つための石だった。
誰かとお揃いで持っていた石だった。
その誰かが、誰か。
「……」
胸が痛かった。
さっきより痛かった。
理由がわからないのに、痛かった。
わからないまま、両方の石を、両手で握る。
温かかった。片方が温かかった。もう片方が冷たかった。
冷たい方が、どうも温かくならなかった。
持っていた人間がいなくなったから、温まらないということだろうか。
「……誰」とわたしは声に出した。
誰かに向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、わからなかった。
「誰が持っていたの」
返事がなかった。
部屋が静かだった。
「……」
目が熱くなった。
理由がわからなかった。
でも、涙が出た。
何かを失った感覚があった。
何を失ったのかが、出てこなかった。
でも、失った。
確かに失った。
何か大切なものを、失った。
石を握り続けた。
「いるの」とわたしは言った。「どこかに」
返事がなかった。
「……」
石が、ポケットの中にあった。
ずっとそこにあって、ずっと持ち続けていた。
捨てられなかった。
捨てる気になれなかった。
大切なものだとわかっていたから。
その人が誰か、出てこなかった。
でも。
「……探す」とわたしは言った。
誰もいない部屋で、声に出した。
「あなたが誰かは、わからない」
石を見た。
「でも、あなたがここにいたことは、わかる」
温かい方の石が、手のひらの中にあった。
ずっと持ち続けていたから、温かくなっていた。
「……必ず、探す」
窓の外に、月が出ていた。
夕方の薄い月だった。
まだ空が青いのに、白く見えた。
月を見ていた。
なぜ月を見ると、胸が痛くなるのか、わからなかった。
でも、痛かった。
確かに、痛かった。
三日が経った。
研究室に一人でいた。
向かいの椅子が空だった。
ずっと空だった。
いつから空だったのか、わからない。でも、何かが足りない感覚が、三日間続いていた。食堂に行っても、廊下を歩いても、図書館の地下にいても——何かが足りない。
恋人石を、ポケットから出した。
温かい方と、冷たい方。
三日間、ずっと握っていた。
温かい方は、わたしのもの。
冷たい方は——
「……」
誰のものか、まだ出てこなかった。
でも昨日より、出てこない感覚が変わっていた。
昨日は「わからない」という感覚。
今日は「もう少しで出てくる」という感覚。
薄い幕が、一枚あった。その向こうに何かがあった。手が届きそうで、届かなかった。
冷たい方の石を、握る。
この石を持っていた人間がいた。
毎日、この部屋に来ていた。
向かいの椅子に座っていた。
本を読んでいた。ページを繰る音がした。
「お姉様」と呼んでいた。
「……」
声が聞こえた気がした。
頭の中で聞こえた気がした。
「お姉様」という声が。
誰かの声だった。
聞き覚えがあった。
「……」
立ち上がった。
廊下に出て、感知を展開する。
何を探しているのか、わからなかった。でも展開した。
エドヴァルトの研究室に向かった。
ノックした。
「開いている」
エドヴァルトが机に向かっていた。でも文献を読んでいなかった。ただ座っていた。
「来たか」とエドヴァルトが言った。
「来た」
「何かあったか」
「聞きたいことがある」とわたしは言った。
「どうぞ」
「三日前の夜、何があったの」
エドヴァルトが止まった。
「……やはり覚えていないのか」
「覚えていない。でも、今日は覚えていない感覚が変わっている」
「どう変わった」
「もう少しで出てくる、という感覚がある」とわたしは言った。「だから、話してほしい。聞けば、思い出せるかもしれない」
エドヴァルトが文献を閉じた。
わたしを見た。
しばらく黙っていた。
「……無理に思い出させるのはどうかと思って言わなかったが、そういうことなら、リアンのことを話す」とエドヴァルトが言った。「聞けるか」
「リアン」
「リアン・ド・クロワール」
胸が痛んだ。
三日前から続いている、原因のわからない痛みが、また来た。
「聞く」とわたしは言った。
エドヴァルトが話してくれた。全部。
リアンが学院に入学してきたこと。図書館の地下に毎日来るようになったこと。干渉実験をしたこと。聖女の審査のこと。護衛任命のこと。
三日前の夜のことも話した。
童話のこと。神殿騎士団のこと。籠城した夜のこと。
「リアンは自分で神殿に行った」とエドヴァルトが言った。「あなたが眠った後に出ていった。追いかけたが——間に合わなかった」
「リアンは」
「……消えた」とエドヴァルトが言った。
「星環神への供物として光魔力を捧げたとき、その存在が世界の記憶から消える——そういう代償があったらしい。神殿の記録の奥深くに書いてあった。わたしも後から知った」
「それで、わたしは忘れた」
「そうだ。おそらく、リアンを失ったショックに耐えられなかったからだろう」
部屋が静かだった。
エドヴァルトが黙っていた。
わたしも黙っていた。
「……思い出せるか」とエドヴァルトが言った。声が低かった。
「わからない」
「ルネ」
「なに」
「顔が、変わってきている」エドヴァルトが言った。「三日前とは違う顔だ」
「……そうね」
頭の中で、声が聞こえていた。
「お姉様」という声が。
聞き覚えのある声が。
研究室に戻った。
椅子に座った。
目を閉じた。
エドヴァルトの話を、頭の中で順番に並べた。
図書館の地下。向かいの席。ページを繰る音。
「お姉様、今日もいましたね」という声。
干渉実験。光魔力が干渉域に溶け込んでいく感覚。温かかった。いつもの温度と違う温かさだった。
「やっていいですか、また」という声。
月見石。夜の中庭。二人で並んで立っていた。
恋人石。小さくて、丸くて、白い石。「絶対になくしません」という声。
廃工場。誘拐されて、助けに行った。「来てくれると思っていました」という声。
「お姉様と結婚します」という声。
デート。射的。ぬいぐるみを渡した。「大事にします」という声。
護衛任命。二人部屋。「手を繋いでほしいです」という声。蹴り飛ばされた夜。
読み聞かせ。「お姉様の声で読んでもらうと、安心します」という声。
聖女審査。鏡の中で戦った。戻ってきたリアンを抱きしめた。泣いていた。
式の話。「お姉様と結婚式をします」という声。月見石の前で。
最後の夜。読み聞かせをした。手を繋いだ。眠りについた。
薄い幕が、破れた。
「——リアン」
目を開けた。
声が出た。
体が震えていた。
「リアン」
もう一度言った。確かめるように。
今度は、声の向かう先があった。
向かいの椅子が、空だった。
いつもリアンがいた席が、空だった。
「……」
目が熱くなった。
三日前の夜の記憶が、全部戻ってきた。
号哭したことも。
扉が閉まったことも。
リアンが「行ってきます」と言ったことも。
「お姉様が見ていてくれるから、行けます」と言ったことも。
「リアン」
机に手をついた。
震えていた。
泣いていた。
声を出さずに泣いた。三日前は声が出た。今日は声が出なかった。
出し尽くしていたのかもしれなかった。
それとも、声を出したら本当のことになる気がして、出なかったのかもしれなかった。
どのくらい経ったか、わからなかった。
窓の外が暗くなっていた。
夜になって、月が出ていた。
見た。
白かった。
暗い空の中で、白く光っていた。
「……月か」
ぬいぐるみを見た。
枕の横にあった。
リアンが置いていったぬいぐるみが。
取った。
手のひらに乗せた。白かった。
「リアンが置いていった」とわたしは言った。声に出した。「ここに残していった」
残した理由があった。
「絶対に来てくれると思っていました」と言いそうだった。
言っていたかもしれなかった。
「……わかった」とわたしは言った。
机に向かった。文献を出した。
擬似ブラックホールの研究記録を出した。
コイン一枚サイズから始まって、神殿全体を覆う規模まで拡大したときの記録だった。
「擬似ブラックホールは、空間を収束させる」
とわたしは小さく声に出しながら書いた。
「空間の収束は、時間の流れに干渉する可能性がある」
シリルに話したことがあった。時間と闇魔法の関係が気になっている、と。
エドヴァルトが言っていた。魔力が自己帰結ループに入ると、空間が収縮する。理論上、時間軸に干渉できる可能性があると。
「時間に干渉できれば」とわたしは書いた。
書きながら、手が震えていた。
「時間軸を遡行できれば——」
ペンを止めた。
「リアンがいた時間に、戻れる」
言葉にした。
言葉にしたら、本当のことになった。
可能かどうか、わからなかった。
前例がなかった。
理論が完成していなかった。
でも——やるしかないから、やれる。
それが、わたしの根拠だった。
「研究する」とわたしは言った。
部屋に誰もいなかった。
向かいの椅子が空だった。
でも、言った。
「あなたを取り戻すための方法を、研究する」
擬似ブラックホールの記録に、新しい項目を書いた。
「時間遡行の可能性について」
一行だけ書いた。
その一行の下が、白かった。
これから埋めていく余白だった。
ペンを置いた。
恋人石を出した。
二つ、手のひらに並べた。
温かい方と、冷たい方。
「冷たい方が、また温かくなる日まで」とわた
しは言った。
月が窓の外で光っていた。
「待っていて、リアン」
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