第56話 さよなら

 扉の隙間から光が消えた。


 金色の光も、白い光も、何もなくなった。わたしは扉に手を当てたまま、呆然と、立っていることしかできない。


 感知を向け続けると、扉の向こうに、何かがあった。

 星環神の魔力が、収まっていた。暴走していた気配が、静かになっていた。海が嵐の後に凪ぐように、大きかった魔力の動きが止まっている。


 リアンの光魔力が——


 あった。あった。


 弱かった。でも、あった。


「リアン」


 扉に両手をついた。押した。けれども動かない。術式の封印が、まだかかっていて、でも内側から封じている力が、確実に弱くなっている。


「リアン」


 もう一度押した。

 封印が音を立てて崩れ、扉が開く。


 中は広かった。

 天井が高かった。壁に星の紋様が刻まれていた。中央に、大きな祭壇があった。祭壇の上に、星環神を象った彫刻があった。


 彫刻が、静かに光っていた。

 金色の光だった。でも穏やかだった。暴走していたときの、荒れ狂うような光ではなかった。眠っている星環神の光だった。


 祭壇の前に、リアンが倒れていた。

 走って駆け寄り、膝をつく。


「リアン」


 肩に手をかける。体が動いた。確かに、生きていた。


「……お姉様」


 目が開いた。

 顔が白かった。唇の色が薄かった。でも、目はあった。わたしを見ていた。


「来てくれましたね」とリアンが言った。声が細かった。

「来た」

「わかっていました」


 抱き起こした。

 冷たかった。いつもの温度がなかった。体から熱がすーっと引いていた。


「終わったの」とわたしは聞いた。

「終わりました」とリアンが言った。「星環神が、眠りについた。魔物の群れも、止まると思います」

「あなたは大丈夫なの?」


 リアンが少し間を置いた。


「わたしは、もう長くないと思います。でも、消えるまでに、少し時間があるみたいです」

「……少し」

「はい。今すぐではないです」リアンが言った。「だから」

「だから」

「最後の時間を、お姉様と過ごしたい」とリアンが言った。「それだけを、お願いしてもいいですか」


 そのとき、扉の外から足音がした。

 神殿の高官が来た。


 白い礼服だった。年配の男だった。表情に、何かが終わったという安堵があった。


「聖女の自己犠牲により、星環神の暴走が収まりました。王国に代わり、感謝を——」

 

 振った右拳が、高官の顔に当たり、倒れた。

 銃を引き抜く。


「お姉様」


 後ろからリアンの声がした。


「——」

「やめてください」とリアンが言った。「お姉様が悪いことになります」

「悪くていい」

「なりません」リアンが言った。「お姉様には、これからも幸せに生きていてほしいので」


 銃を向けたまま、高官を見た。

 高官が倒れたまま、わたしを見上げていた。ぶるぶると震えていた。


 舌打ちをして、銃をしまった。


 高官が立ち上がった。顔を押さえながら、後退していった。


「失礼しました」と言って、廊下に消えた。


「お姉様」


 振り向いた。

 リアンが壁に手をついて立っていた。体が揺れていた。

 急いで駆け寄る。


「ごめんなさい」とリアンが言った。「お姉様が来てくれているのに、迷惑をかけてしまって」

「迷惑ではない」

「でも怒っていますよね」

「怒ってる」とわたしは言った。「でも今は、それより先にやることがある」

「何ですか」

「部屋に帰る」とわたしは言った。「最後の時間を、部屋で過ごす」

リアンが少し目を細めた。

「……はい」


 エドヴァルトたちが来た。シリルが走ってきた。リアンを見て、顔が歪んだ。でも何も言わなかった。


 レヴが来た。リアンを見た。一瞬だけ、目が揺れた。中二病の口調で何かを言おうとして、言えなかった。


 ミエルが来た。リアンを見た。「リアンさま」と言った。それだけだった。いつもの天然の言い方ではなかった。


 エドヴァルトが来た。わたしを見た。状況を把握した顔をした。


「帰るか」とエドヴァルトが言った。

「そうする」

「……わかった」


 誰も余計なことを言わなかった。

 四人が、廊下を固めた。外に出るまで、全員でリアンを囲んで歩いた。


 夜明けが近い。

 空の端が、少し白くなっていた。街はまだ眠っていた。


 部屋に戻る。

 

 リアンが「お風呂に入りたいです」と言った。


 一緒に入った。

 湯の温度を高めに設定した。リアンの体が冷えていたから。


 リアンが湯に入った瞬間、少し息を吐いた。


「温かいですね」とリアンが言った。

「そうね」

「お姉様の隣は、温かいです」

「湯が温かいのよ」

「それもありますが」とリアンが言った。「お姉様がいるから、温かいです」

 

 黙っていた。答えなかった。


 リアンの体が、少しずつ温かくなっていくのを感じた。でも、内側から来る温かさではない。外から与えられた温かさだ。


「お姉様」

「なに」

「昨日の昼間、わたしが眠っているとき、布団を直してくれましたか」


 少し間があった。


「……なぜ知っているの」

「半分だけ目が覚めていました」とリアンが言った。「でも眠っているふりをしました。お姉様が直してくれるのが、好きだったので」

「……そういうことはちゃんと言いなさい」

「言ったら、照れるじゃないですか」

「照れないわよ」

「照れます」リアンが言った。「お姉様は照れると、顔には出ないけど声が少しだけ低くなります」

「……今も低い?」

「少しだけ」

「……気のせいよ」


 リアンが笑った。

 湯の音がした。


「お姉様」

「なに」

「今夜も、読み聞かせをしてもらえますか」

「する」

「ありがとうございます」リアンが言った。「お姉様の声で読んでもらうのが、好きでした。最初から、ずっと」

「最初というのは」

「学院に来た最初の日から」リアンが言った。「図書館の地下で、お姉様が文献を読んでいる声が聞こえました。低くて、静かな声でした。好きだと思いました」

「文献を声に出して読んでいたの」

「小声で読んでいました。気づいていませんでしたか」

「気づいていなかった」

「そうですか」リアンが言った。「それからも、たまに聞こえていました。だから、読み聞かせを頼んだとき、すごく嬉しかったです」

「そんな理由だったの」

「それだけじゃないですが」リアンが言った。「それもあります」


 湯の音が続いた。


 部屋に戻った。

 窓を開けた。

 月が出ていた。


「お姉様、月が出ていますよ」とリアンが言った。

「お姉様」

「なに」

「読み聞かせ、してくれますか?」

「する」

「はい」リアンがベッドに入った。「お願いします」


 本を取った。読み始めた。

リアンが目を閉じて聞いていた。眠っていなかった。でも静かだった。

 一話読んだ。


「もう一話」とリアンが言った。


 二話目を読んだ。

 三話目を読んだ。

 四話目の途中で、リアンの呼吸が深くなった。

 眠っていた。

 本を閉じた。

 ベッドの横に座ったまま、リアンを見た。

白かった。顔の血色が戻っていなかった。でも、眠っていた。穏やかな顔で眠っていた。


「……」


 手を取った。

 冷たかった。いつもより冷たかった。


「今夜、蹴り飛ばしてもいいから」とわたしは言った。


 誰も聞いていなかった。リアンは眠っていたから。


「蹴り飛ばしてもいい。だから、どこにも行かないで。行かないでよ」


 手を握り続けた。

 目が熱くなった。

 声を出さなかった。

 出さないように、した。


「あなたがいるから、ここにいられた」と、昨日言った言葉を、もう一度声に出した。


 リアンが眠っていた。

 聞こえていなかった。

 聞こえていないとわかっていた。でも言った。


 言わなければならなかった。


 月が窓の外で光っていた。

 ぬいぐるみの月が、枕の横で白かった。

 手を握ったまま、眠りについた。


 目が覚めたとき、手の中に何もなかった。

温度がなかった。

 ベッドの横に座ったまま、眠っていた。首が痛かった。


 手が空だった。リアンがいなかった。


「……」


 感知を展開する。

 部屋の中にいなかった。

 廊下にいなかった。

 学院の敷地内にいなかった。

 外に広げた。

 どこにも、なかった。

 リアンの光魔力が、世界のどこにも、なかった。


「……」


 声が出なかった。

 出し方がわからなかった。

 ベッドから立ち上がった。部屋の中を見た。


 枕の横に、ぬいぐるみがあった。

 白くて、丸くて、熊に近い形のぬいぐるみが。


 窓を開けた。

 朝だった。空が青く澄んでいる。

 何も起きていないような朝だった。


「……リアン」


 声が出た。

 廊下に出た。誰もいなかった。

 中庭に出た。月見石があった。白く光っていた。

 月見石の前に立つ。

 膝が崩れ、地面に手をつく。

 

 声にならない声が出た。

 誰もいない中庭で、声を上げた。

 言葉にならなかった。リアンの名前を呼んだのかもしれなかった。何を言っているのかわからなかった。ただ、声が出続けた。


 月見石が白く光っていた。朝の光の中で、白く、白く、光っていた。

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