第55話 喪失

 目が覚めた。いつもの天井だった。二人部屋の天井だった。護衛任命から、ずっと見てきた天井だった。


 何かが違った。


 静かすぎる──


 背中を這いずり回るような、嫌な予感。感知を展開する。リアンの気配がなかった。


 起き上がって、ベッドを見る。空だった。布団がきれいに整えられていた。


 ぬいぐるみが、わたしの枕の横にあった。


「……」


 感知を広げた。

 部屋の中にいない。廊下にいない。学院の敷地内にいない。

 まさか。

 飛び出すように外に出ると、感知を最大まで展開する。


 頭が痛くなった。反動の痛みだった。それでも広げ続け続ける。


 あった。遠い。


 神殿の方角だった。


 リアンの光魔力が、神殿の方向に向かっていた。動いていた。まだ神殿には到達していなかった。でも向かっていた。


 時間がない。


 エドヴァルトの部屋のドアを強く叩く。


「エドヴァルト」


 数秒で扉が開いた。


 エドヴァルトが立っていた。寝ていなかったのかもしれない。あるいは気配を感じて起きていたのかもしれない。


「リアンが神殿に行った」

 

 エドヴァルトの表情が変わった。


「わかった」と即座に言った。「シリルとレヴとミエルを呼ぶ。五分待ってくれ」


「三分にして」


「……三分だ」


 扉が閉まる。感知を続けながら、廊下で待っていた。


 リアンの光魔力は、まだ移動していた。神殿への参道に入った。


 急がなければならなかった。

 でも、足が震えていた。


 故郷であるクロワール辺境伯領が襲われているのに、それをリアンが指を咥えて見ていられるわけがないことなんて、わかっていたはずなのに。


「……馬鹿ね、わたしは」


 誰もいない廊下で、声に出した。


 エドヴァルトの扉が開いた。シリル、ミエル、レヴが続いた。全員、服を着ていた。全員、移動の準備は整っていた。


「行くか」とエドヴァルトが言った。

「行こう」



 夜明け前の街は暗かった。

 祭りの飾りが、まだ木の枝に結んであった。夜風で揺れていた。人がいなかった。


 走った。


 感知を前方に向け続けた。


 リアンの光魔力が、神殿の中に入っていた。


「間に合うか」とレヴが走りながら言った。

「わからない」

「神殿には騎士団がいる」

「昨日の連中より多い可能性があります」

「わかっている」

「どうするんですか」

「突破する」

「わかりました」とミエルが言った。「クールに行きます」


 レヴが索敵を展開した。「神殿の正門に八人。側門に四人。屋根の上に二人」と言った。「合計十四人。昨日より多い。待ち構えていた可能性がある」

「リアンが出ていくことを、神殿は知っていた」

「誘導していたということですか」とシリルが言った。

「そうかもしれない」


 昨夜、騎士団の気配が建物の外に移動していた。完全に去っていなかった。でも扉に踏み込んでくる気配ではなかった。待っていた。リアンが自分で出てくることを、待っていた可能性があった。


 リアンはすでに、何かを知っていた。

 だから昨夜、出ていった。


「正門は避ける」とわたしは言った。「東の塀に崩れた箇所がある。そこから入る」

「感知で確認したんですか」とエドヴァルトが言った。

「以前、神殿に通っていたとき確認していた。念のために」

「念のためにそういうことを調べているのか」

「念のためよ」



 東の塀から入った。

 レヴが索敵を続けていた。「塀の内側に三人。配置が均等ではない。東側が手薄です」と言った。「意図的に手薄にしている可能性があります」

「正門からわたしたちが来ることを想定して、正門側に多く配置している」

「そうだと思います」

「東から入ったことがわかれば、再配置してくる」

「速度が重要ですね」とミエルが言った。

「エドヴァルト、内部の騎士団と神官を誘導できる?」

「任せろ」

「シリルは東側の三人を抑えてくれる?」

「はい」

「レヴは索敵を続けながら、わたしと一緒に来て」

「わかった」とレヴが言った。中二病の口調ではなかった。

「ミエルは」

「負傷者が出たら、対応します」とミエルが言った。「クールに」

「頼む」


 全員が頷いた。

 理由を聞かなかった。

 ただ来てくれた。それだけで、よかった。


 東側の三人は、シリルが対処した。

 光魔法の制圧型術式を展開して、三人を同時に無力化した。音もなく。速かった。


「通れます」とシリルが言った。


 走った。


 神殿の内部に入った。


 廊下に出た瞬間、気配がした。


「北から二人、来る」とレヴが言った。


 干渉域を展開した。


 廊下の角から出てきた二人の術式の起点に入り込んで、崩した。銃を向けた。威嚇した。二人が止まった。


「邪魔をしないで」とわたしは言った。


 二人が後退した。完全に引いた。

 走り続けた。


「リアンの気配は」とわたしは走りながらエドヴァルトに言った。


「感知できている。神殿の最奥だ。星環神が祀られている場所」

「どのくらいで着く」

「五分かからない。でも」

「でも」

「経路に、騎士が複数配置されている」エドヴァルトが言った。「明らかに、わたしたちが来ることを想定した配置だ」

「わかった。行く」

「ルネ」とエドヴァルトが言った。

止まらなかった。

「急げ」とエドヴァルトが続けた。「わたしたちが後ろを抑える。あなたは行け」

「一人で?」

「感知があるだろう。騎士団の配置は全部読める」

「……わかった」

走り始めた。

レヴが「索敵を全開で維持する」と言った。「前方十メートル以内に入ってくる前に、全部知らせる」

「お願い」

「……頼まれた」とレヴが言った。声が低かった。普段の中二病の口調ではなかった。「行け、ルネ」

走った。

一人で走った。


 廊下を走りながら、感知を前方に向け続けた。

 レヴの索敵と合わせて、騎士団の位置が全部読めた。十四人のうち、正門側に九人が集まっていた。内部に残っているのは五人だった。


 五人を避けながら走った。


 廊下が長い。

 神殿の最奥に向かうほど、石造りが古くなっていった。壁に刻まれた紋様が増えた。星の形をした、星環神を象った紋様だった。

 小ささな足音。

 前方から来ていた。

 騎士団ではなかった。気配が違った。足を止めた。

 廊下の奥から、誰かが来ていた。

 大きな扉があった。両開きの、重そうな扉だった。その扉の前に——


「来てしまいましたね、お姉様」


 リアンが立っていた。

 扉の前に、こちらを向いて立っていた。

 白い衣装を着ていた。聖女の儀式用の衣装だった。いつもの制服ではなかった。

 顔が穏やかで──少しも怖がっているそぶりがない。


「リアン」


 声が、少し震えた。


「来ると思っていました」とリアンが言った。「お姉様なら、絶対に来ると思っていました」

「どうして出ていったの」

「ここに来なければならなかったので」

「なぜ」

「星環神が暴走しています」リアンが言った。「止めなければ、王都まで魔物が来ます。辺境伯領が、もうすでに大きな被害を受けています」

「他の方法があるはずよ」

「神殿の人たちと、それを話し合っていました」リアンが言った。「でも——質の高い光魔力を捧げる以外に、方法はない。それが、文献の全部を調べた結論でした。それをできるのは、聖女であるわたしか、オーレリア様。ですが、オーレリア様には、生きてほしいんです」リアンが言った。静かに言った。「もちろん、お姉様にも」

「あなたにも生きてほしい」

「わかっています」

「ならどうして……」

「好きな人たちが生きていられる世界を守りたいから」リアンが言った。「お姉様も、エドヴァルト様も、シリル様も、ミエル様も、レヴも——みんなに、生きていてほしいから」

「そこにあなたがいなくちゃ、意味ないじゃない」


 大きな扉の奥から、光が漏れていた。


 金色の光。星環神の魔力だった。


「お姉様」とリアンが言った。

「なに」

「止めないでください」

「止める」

「お姉様」

「止めるわよ」とわたしは言った。「他の方法を探す。一緒に探す。あなたが犠牲にならない方法を——」

「お姉様」リアンが近づいてきた。「見つけてくれますか。今夜、見つけてくれますか。星環神の暴走が、今も続いています。今夜中に止めなければ、明日には王都の手前まで魔物が来るそうです」

答えられなかった。

「……見つけられないわ」とわたしは言った。

「わかっていました」とリアンが言った。「お姉様が全力で探してくれることも、わかっていました。でも、間に合わない」

「間に合わせる」

「お姉様」

リアンがわたしの手を取った。

「わたしは」とリアンが言った。「決めました。自分で決めました」

「決めさせたくなかった」とわたしは言った。

「でも、決めました」リアンが続けた。「これがわたしの答えです。誰かが守ってくれるのを待つのではなく、わたしが守る番だと思いました」

手の温度があった。

「昨夜」とリアンが言った。「一日、ありがとうございました。お姉様と過ごした時間は、わたしの宝物です」

「……そんなこと、言わないで」

「お姉様」リアンが言った。「ぬいぐるみ、置いてきました」

「見たわ」

「あれが、わたしの代わりに隣にいてくれます」

「誰も、何もあなたの代わりになんてならない」

「なれないかもしれません」リアンが言った。「でも、ぬいぐるみはずっと一緒にいられます。月の出ない、暗い夜でも。だから——お姉様、どうか、それをわたしだと思って抱いてください」


 手が離れた。


「行ってきます、お姉様」

「行かないで」

「行ってきます」とリアンが繰り返した。

 

 笑っていた。

 いつもの笑い方だった。


「ここで待っていてください」とリアンが言った。「お姉様がいてくれるから、わたしは行けるんです」


 扉に向かった。


「リアン」


 振り返った。


「……言葉を考えていた」とわたしは言った。「式のときに言う言葉を」

「考えてくれていたんですか」

「考えていた」

「……どんな言葉ですか」


 少し間があった。


「あなたがいるから、ここにいられた」

 リアンが止まった。


 目が赤くなっている。


「……覚えておきます」とリアンが言った。「覚えて、行きます」


 扉が開いた。金色の光が溢れ出る。


 リアンが光の中に入っていった。


 扉が、閉まる。


 わたしは、扉の前に一人で立っていた。


 感知を扉の向こうに向けた。


 リアンの光魔力があった。


 動いていた。


 向かっていた。

 星環神に向かっていた。


「……リアン」


 扉に手を当てたけれど、ぴくりとも動かなかった。


 光が、扉の隙間から漏れていた。


 金色の光の中に、リアンの白い光が混ざりあって。


 混ざって、溶けて——沈黙が落ちた。

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