第54話 思い出

 騎士団の気配は、夜明けになっても消えなかった。


 建物の外に、六人が待機していた。昨夜より少なかったけれど、確かにその気配は残っている。交代しながら、一晩中そこにいた。


「今日は一歩も外に出ない」

「はい」とリアンが言った。「エドヴァルト様に食事をお願いしますか」

「そうする」


 エドヴァルトに連絡を入れた。状況を話した。

「わかった。今日も運ぶ。もしもの時を考えて、ミエルとシリルも一緒に来てもらう」

「わかったわ」

「外の様子を確認する。何かあれば連絡する」

 

 電話を切った。


 カーテンを閉めた。


 部屋が薄暗くなった。


「お姉様」

「なに」

「今日も、一緒にいてくれますか」

「どこにも行かないわよ」とわたしは言った。「護衛だから」

「護衛だから、だけじゃないですよね」

「……護衛だから、よ」


 リアンが少し笑った。笑い方がいつもと少し違った。柔らかかった。


「わかりました」とリアンが言った。「では、今日は護衛のお姉様と一緒にいます」



 午前中は、文献を読んだ。

 向かいにリアンがいた。いつもの形だった。机の上に本が積まれていた。窓の外に光が差し込んでいた。でも今日はカーテンが閉まっていた。


「お姉様」

「なに」

「式の場所、月見石の前にしましたよね」

「そうね」

「月見石、好きですか」とリアンが聞いた。

「なぜ」

「聞きたかっただけです」


 少し考えた。「特別好きというわけではない。でも、あそこが一番、魔力の流れを感じやすい場所だから、研究するときによく行っていた」

「では、わたしが来るから行っていたわけではないんですか」

「月見石に来るのは研究のためよ」

「わたしが来るから、でもあるんじゃないですか」

少し間があった。

「……あなたが来るとわかっていたから、そこにいることが多かった可能性はある」

「それって、わたしが来るからじゃないですか」

「……月見石の魔力が研究に適しているから、という理由が主よ」

「でも来るとわかっていたから、という理由も、少し」

「少しだけ」


 リアンが嬉しそうな顔をした。「では、式の場所は正しいですね。お姉様もわたしも、両方にとって大切な場所です」

「そうね」

「エドヴァルト様は、式のとき何を言ってくれるかな」とリアンが言った。「シリル様は泣きそうですよね。逆にミエル様は飄々としてそうで、レヴは来るけど来たくなさそうな顔をしていそうです」

「あなたはよく人のことがわかる」

「ずっと見てきましたから」とリアンが言った。「みんなのことも、お姉様のことも」

「わたしのことは」

「一番よくわかっています」リアンが言った。「お姉様が怒っているとき、困っているとき、嬉しいとき。全部、わかります」

「そんなに顔に出ているの」

「顔にはほとんど出ていません」とリアンが言った。「でもわかります。ずっと見てきたから」

「……そう」

リアンが本に戻った。

ページを繰った。

その音を聞きながら、文献を読んだ。

頭に入らなかった。でも読み続けた。


 昼食はミエルとシリルが持ってきた。

「差し入れです」とシリルが言った。「エドヴァルト先輩は外の確認をしています」

「ありがとうございます」とリアンが言った。

「式の件、みんな楽しみにしていますよ」とシリルが言った。声が少し慎重だった。状況を心配しながら、でも明るく振る舞おうとしている声だった。「レヴ君も、来ないとは言っていませんでした」

「来ないとは言っていない、というのは来る、ということですね」とリアンが言った。

「そうだと思います」とシリルが笑った。

ミエルがジュースを置いた。「クールな差し入れです」と言った。「リアン様、大丈夫ですか」とミエルが聞いた。

「大丈夫です」とリアンが答えた。「ミエル様がいてくれると、安心します」

「クールな人間がいると安心感がありますよね」とミエルが言った。

「そうですね」とリアンが言った。


 シリルとミエルが帰った。


「みんな、心配してくれていますね」とリアンが言った。

「そうね」

「わたしのことも、お姉様のことも」

「そうね」

「式が終わったら、みんなでどこかに行きたいです」とリアンが言った。「お祝いとして」

「どこに」

「まだ決めていないですが」リアンが言った。「みんなで、にぎやかなところがいいです」


 二人でしばらく笑った。


 珍しかった。わたしがこれほど笑うことは、あまりなかった。でも今日は、なぜか声が出た。


 リアンが嬉しそうな顔をした。「お姉様が笑っています」

「笑っていない」

「笑っています。珍しい」

「珍しくない」

「珍しいです。でも、好きですよ。お姉様が笑っているの」


 答えなかった。

 でも、否定もしなかった。


 午後、リアンが少し疲れた様子だった。

「寝る?」とわたしは聞いた。

「はい、少しだけ」

 ベッドに横になった。すぐに眠った。眠るのが早かった。いつもと同じだった。


 ぬいぐるみを抱えていた。


 わたしは机に戻った。文献を開いた。


 でも、読まずにリアンを見ていた。


 眠っている。いつもの寝方だった。口が少し開いていた。布団が半分ずれていた。


 布団を直した。

 

 ぬいぐるみを抱えている手が、少し動いた。でも目を開けなかった。また規則正しい寝息に戻った。


 椅子に座った。


 今日が終わったら、また明日が来る。


 明日も籠城を続けるかもしれない。神殿との交渉が続くかもしれない。エドヴァルトが何かを見つけるかもしれない。


 そう思おうとした。

 でも、何かが引っかかっていた。


 昨夜のリアンの言い方が、頭の中に残っている。


「今夜は、いるということです」


 今夜は。


 今夜は、という言い方は、今夜以外は違うかもしれないという意味を含んでいるのか。


 リアンが眠っていた。


 穏やかな顔。


 文献を閉じた。そのまま、リアンが起きるまで、ただそこにいた。


夕方、リアンが目を覚ました。


「お姉様、ずっと起きていたんですか」

「文献を読んでいた」

「眠れないんですか」

「眠くなかった」

「そうですか」リアンが伸びをした。「わたし、よく眠れました」

「そうね」

「お姉様と一緒だと、よく眠れます」リアンが言った。「護衛任命された最初の夜から、ずっとそうです」

「蹴り飛ばしていたのに」

「そうなんですか?ごめんなさい」とリアンが言った。でも笑っていた。


 夕食もエドヴァルトが持ってきた。食堂の料理だった。


「外の様子は」とわたしは聞いた。

「騎士団は変わらず待機している」エドヴァルトが言った。「学院側も引き続き交渉を試みているが、神殿の圧力が増している」

「いつまで持つ」

「……正直に言う」エドヴァルトが少し間を置いた。「明日明後日は持つと思う。でもそれ以上は、わからない」

「わかった」

「ルネ」

「なに」

「何かあれば、すぐ来る。それだけは言える」

「……ありがとう」


 エドヴァルトが帰った。

 夕食を食べた。リアンがお肉を嬉しそうに見ていた。「お姉様、これ美味しそうですよ」と言った。「食べなさい」と答えた。リアンが食べた。「美味しいです」と言った。


 それだけのことだった。

 それだけのことが、今日は少し長く続いた気がした。


 夜、風呂に入った。

 いつも通りだった。リアンと一緒に入った。湯の温度はいつもと同じだった。


「お姉様」

「なに」

「昔話をしてもいいですか」

「あなたが話すの」

「はい。お姉様に、聞いてほしいことがあって」

「どうぞ」


 リアンが少し間を置いた。


「わたし、最初にお姉様に会ったとき」とリアンが言った。「怖くなかったんです」

「闇魔法を見たとき?」

「はい。夜の庭で、初めて見たとき。怖くなかった。きれいだと思いました」

「知っている。言っていたから」

「お姉様は覚えていてくれているんですね」

「覚えている」

「嬉しいです」とリアンが言った。「それからずっと、きれいだと思っています。今も」

「今日見ていないでしょう」

「でも、いつもきれいです」リアンが言った。「お姉様が魔法を使うときの顔が、好きです」

「どういう顔なの」

「いつもより、真剣な顔です。他のことを全部忘れて、魔法だけ見ている顔」

「……そんな顔をしているの」

「しています」リアンが言った。「わたしだけが知っている顔だと思っています」

「他の人も見ているでしょう」

「でも、一番よく見ているのはわたしです」

湯の温度が、少し高く感じた。

「お姉様」

「なに」

「今日、一日ありがとうございました」

「一日のお礼を言うのは変よ」とわたしは言った。

「変ではないです」とリアンが言った。「今日は特別な一日だったので」

「何が特別なの」

リアンが少し間を置いた。

「わたしの好きな人と、ずっと一緒にいられたから」

 答えなかった。

 湯の音だけがあった。


 夜、ベッドに入った。


「読み聞かせを」とリアンが言った。

「また?」

「お願いします」


 本棚から一冊取った。昨日も読んだ本だった。

 リアンが目を閉じて聞いていた。眠っていなかった。「それで?」と時々聞いてきた。


 一話読んだ。「もう一話」と言った。

 二話読んだ。「もう一話」と言いかけた。


「寝なさい」

「……はい」

 

 本を閉じた。


「お姉様」

「なに」

「今夜は、蹴り飛ばしません」

「昨日も言っていた」

「今日こそ、本当に」


 蹴り飛ばされてもいいと思っていた。リアンの隣にいたかった。それだけだった。


「おやすみなさい、お姉様」

「おやすみ」


 手を繋いだ。

 温かかった。

 

 リアンの呼吸が、少しずつ深くなっていく。


 それを確認して、わたしは眠りについた。



 どのくらい経ったか、わからない。


 何かが触れた。


 唇に、柔らかいものが触れた。ほんの一瞬。


 夢かもしれない。でも、それは確かに温かかった。


 意識が浮き上がりかける。でも眠りに戻った。戻りながら、それは夢ではないのではないかと思った。


 翌朝──リアンはいなかった。

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