第50話 オーレリアの奮闘
漆黒の龍が、わたしの前に鎮座していた。
大きい。
神殿の広間より大きかった。翼を広げたら、その広間が二つ入るかもしれなかった。鱗は黒く、でも光を受けると、黒の中に深い紫が透ける。目が赤かった。赤い目が、わたしを見ていた。
明確な害意を感じる。
咆哮した。
空気が震え、鼓膜が痛かった。
炎のブレスが、押し寄せてくる。
横に跳んだ。間に合わなかった。右腕の袖が焦げ、皮膚に熱が来た。でも直撃ではなかった。地面が焼け、石畳が溶けた。
距離を取る。
光の収束魔法を展開する。一点に密度を集めた。構築に二秒かけた。放った。
直撃。
確かな手応え。
でも、龍は動じなかった。
命中した場所に、魔力障壁が展開されていた。光が当たった瞬間に、障壁を展開したのだ。わたしの光を受け止め、吸収した。
「……」
術式を組み替えた。拡散型に変えた。一点ではなく面で攻める形。放った。
また障壁が展開された。
面の攻撃に対して、面の障壁が来た。範囲が広かった。わたしの拡散型を全部覆う大きさだった。全部防がれた。
反撃が来た。
今度は爪だった。
龍の前足が振り下ろされた。魔力を乗せた引っ掻きだった。魔力の密度が高かった。当たれば魔力ごとごっそり削られる。
障壁を展開した。
当たった。
障壁が軋む。圧力が強かった。全部は止めきれなかった。左肩に衝撃が来た。後退した。三歩、四歩。
立て直しを図る。呼吸を整えた。
どうすれば届くのか、頭の中で考えた。
障壁の反応速度が速い。こちらが術式を組み始めた瞬間に、龍が感知して対応している。単発の攻撃では間に合わない。複数の攻撃を同時に展開すれば、障壁の対応が追いつかない——でも複数の術式を同時に構築するのは、消耗が
大きい。
何度やれるか、計算した。
楽観的に見て、十回。悲観的に見て、五回。
五回で届かなければ、その後は動けなくなる。
「……やるしかない」
声に出した。誰もいなかった。でも声に出した。言葉にしないと、動けない気がした。
術式を二つ、同時に組み始めた。
そのとき、考えた。
なぜ聖女になりたいのか。
宿の夜、リアン様に聞かれた問いだった。月の下で、わからないと言った。生まれたときから当たり前だと言われてきたから、なりたいのかならなければならないのか、自分でも区別がつかないと言った。
でも今、この場所で、もう一度問われている気がした。
なぜ、聖女になりたいのか。
頭の中に、浮かぶものがあった。
ルネ様の顔だった。
廊下で吐いていたわたしを医務室に連れていってくれた夜の、あの顔だった。「倒れてもいいと思う。人間だから」と言ったときの、あの声だった。「大事なことだから」と言って、わたしの言葉を覚えていてくれたときの、あの目だった。
このドラゴンを倒して聖女になれたら、ルネ様は振り向いてくれるのだろうか。
そんな、醜いことを考えた。
頬に熱いものが伝っていた。
あれ、諦めるって決めたはずなのに。
夜、回廊で光を灯したり消したりしながら、決めたはずだった。言わない選択をした。来ていいと言ってもらえるだけで十分だと思った。リアン様がいる。わかっていた。最初から、わかっていた。
でも、どうしても、考えてしまった。
聖女になったら、護衛として一緒にいられる時間が増えるかもしれない。聖女になったら、ルネ様の研究を正式に支援できるかもしれない。聖女になったら——ルネ様の隣にいる理由が、今より少し、強くなるかもしれない。
わかっていた。ずるいとわかっていた。言わないと決めたのに、言わないことの裏側で、こんなことを考えていた。
涙が落ちた。
石畳に落ちた。すぐに焼けた。
「……醜いわたし」
ぽつりと、漏らした。
龍が動いた。
また炎のブレスが来た。
今度は跳ばなかった。障壁を展開した。全力で展開した。ブレスが当たった。熱かった。でも通らなかった。
前に出た。
距離を詰めながら、二つの術式を同時に組んだ。右手で収束型、左手で拡散型。別々の方向から同時に当てる。どちらかの障壁が薄くなる瞬間を作る。
放つ。
収束型が右から当たった。障壁が対応した。でも対応した分、左側が薄くなった。
拡散型が左から当たった。
今度は、通った。
龍が初めて後退した。
「……当たった」
でも一発では足りなかった。
龍の鱗に赤い線が一本入った。そこから魔力が少し滲んだ。でも致命的ではなかった。怒りに変わった。目が赤から深紅に変わった。
反撃が激しくなった。
爪の連撃が来た。
一発目を障壁で受けた。二発目も受けた。三発目が来た——間に合わなかった。
腹部に当たった。
吹き飛んだ。
壁に当たった。衝撃が走った。肺から空気が全部出た。しゃがみ込んだ。
「……はっ、はっ」
呼吸が戻ってこなかった。
数秒かかった。
ゆっくり、空気が入ってきた。
立ち上がった。
足が震えていた。でも立てた。
何度か倒れた。
倒れるたびに立ち上がった。
理由を考える余裕がなかった。ただ立ち上がった。立ち上がれるうちは、立ち上がった。
もう何回も、術式を組み替えていた。
届かなかった。届かなかった。また届かなかった。でも少しずつ、鱗の傷が増えていった。
どこが薄いか、どのタイミングで障壁の対応が遅れるか、少しずつわかってきた。
消耗が限界に近づいていた。
魔力が薄くなってきた。術式を組む速度が落ちてきた。
「……あと、何回」
声に出した。三回、四回。それが限界だ。
そのとき、頭の中で何かが変わった。
ルネ様の顔が、また浮かんだ。
でも今度は違った。
聖女になったらルネ様が振り向いてくれるという醜い願望ではなく、ルネ様が外で待っている、という純然たる事実だった。
広間の外で、感知を最大まで展開して、鏡の内側の気配を読もうとしているルネ様がいた。
わたしの気配も、読んでいるかもしれなかった。
外から、見ていてくれている。
それだけだった。それだけのことだった。でもそれが、わたしの光の向かう先を変えた。
聖女になるために倒す、ではなかった。
ルネ様が外で見ていてくれているから、倒れない。
それだけだった。
でも、それだけで——魔力の質が変わった。
術式を組んだ。
今度は計算しなかった。どこが薄いかを探すのではなく、ただ全力で組んだ。制御を手放した。純度だけを残した。向かう先だけを決めた。
光が出た。
制御を外した光だった。方向だけがあった。精密な光ではなかった。でも眩しかった。
龍が、止まった。
障壁を展開しようとした。でも間に合わなかった。
わたしの光が、龍の胸部に当たった。
鱗が砕けた。
龍が、大きく後退した。
崩れ落ちる前に、もう一発組む。
ありったけの魔力を全部注いで、放つ。
直撃。龍が、倒れた。
地面が揺れた。
音が、鏡の空間に響いて、消えた。
静かになった。
わたしは膝をつく。
魔力がほとんどなかった。立っていられなかった。
でも、倒れなかった。膝はついたが、倒れなかった。
龍の鱗が一枚、わたしの目の前にぽとんと落ちる。
証拠として持っていける。拾おうとして、手が震えていた。
それでも拾った。
握りしめた。
「……わかりました」とわたしは声に出した。誰もいなかった。でも言いたかった。「向かう先が、見つかりました」
ルネ様が見ていてくれていたから、倒れなかった。
鏡の外に戻る光。
あまりの眩さに、わたしは目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます