第51話 終着

 森に戻っていた。


 最初の森だった。木が高く、光が差し込んでいる。風が優しく吹いていた。


 地面に、獣が横たわっていた。


 光る毛並みを持つ、あの巨大な獣だった。目が閉じて、胸が、ゆっくりと動いていた。浅い呼吸している。


 生きている。


 でも戦意がなかった。


「……死んでいない」とわたしは言った。

「死なせなかった」


 どこかから声がした。獣の声だった。目を閉じたまま、話していた。


「お前は、戦って倒すことを選ばなかった」


「はい」


「なぜだ」


「攻撃できなかったから、ではありません」とわたしは言った。「攻撃しない、と決めたからです」


「その違いがわかるか」


「わかります」わたしは答えた。

「攻撃できないのは、力がないこと。攻撃しないのは——そうしたくなかった、ということです」

「なぜそうしたくなかった」

「お姉様の形をしているものを、傷つけることができなかった。でも、それだけじゃなくて。お姉様はいつも、わたしを守ってくれていた」


 獣が、静かに聞いていた。


「だから今日は——わたしが受ける番だと思いました。守ることは、攻撃することじゃないから」


 しばらく間があった。


 森の風が吹いていた。木の葉が揺れた。光が差し込んでいた。さっきと同じ、午後の光だった。


「お前の答えは受け取った」と獣が言った。「行きなさい」


 光が来た。


 鏡の外に戻る光だった。白い光だった。

でも行く前に、一つだけ聞きたかった。


「お姉様の形をした幻覚は——何を試していたんですか」


 少し間があった。


「お前の記憶に干渉して、最も戦いたくない相手に対してどうするかを試していた。力があれば倒す。力がなければ倒せない。でもお前は、どちらでもなかった」

「どちらでもない?」

「倒せる力があった。でも倒さなかった。それがお前の答えだ」

「答え、というのは」

「聖女とは何かの、お前の答えだ」と神獣が言った。「守ることは、倒すことではない。そう知っている者を、わたしは長い間、待っていた」


 光が強くなった。

 目を閉じた。


 光に包まれた。

 鏡の外に、戻った。




 鏡面が揺れる。

 波紋が広がって、銀色の表面が動いた。


 わたしとオーレリア様が、ほとんど同時に出てきた。


 足が地面に触れた瞬間、現実の空気が戻る。石畳の硬さがあった。神殿の広間の温度。鏡の中の空間とは違う、少し冷えた空気だった。


 目を開けると、広間だった。


 長老たちが壇上に並んでいた。神官たちが両側に立っていた。エドヴァルト様が少し離れたところにいた。シリル様が、ミエルが、レヴが——

お姉様が、いた。


 鏡のすぐ前にいた。わたしが出てくるのを、ずっとそこで待っていたのだとわかった。一歩も動かずに、待っていたのだとわかった。


 目が合った。


 一瞬だった。


 次の瞬間、お姉様が動いた。


 鈍い衝撃が走った。

 お姉様が、抱きついてきたのだ。

 両腕がわたしの背中に回った。強かった。珍しい、と思った。

 

 いつもはわたしから抱きつく形だった。お姉様から来ることは少なかった。


「リアン、本当によかった……」


 お姉様の震える声が、耳の近くで聞こえる。


 声が、体が、わずかに震えていた。


 わたしはお姉様を抱き返す。


 背中に腕を回した。お姉様の体温があった。鏡の中では感じられなかった温度だった。


「戻ってきましたよ」とわたしは言った。

「本当に、よかった」

「心配させてしまいましたか」

「……させた」

「すみません」

「謝らなくていい」お姉様が言った。「ただ——」


 続かなかった。


 でも、続かなかった言葉の意味はわかった気がした。


 しばらくそのままでいた。

 広間に他の人たちがいることは、わかってる。長老も神官もエドヴァルト様たちも、みんな見ていた。でもどうでもよかった。


 お姉様が震えていた。

 わたしはただ、その震えが落ち着くまで、抱き続けた。


「鏡の中で」とわたしは言った。「幻覚が出ました」

「何の」

「お姉様の」

お姉様の腕が、少し強くなった。

「攻撃してきた?」

「してきました」

「怪我は」

「全部受けました。でも、怪我はありません」

「全部受けた」

「はい」

少し間があった。

「攻撃しなかったの?」とお姉様が聞いた。

「しませんでした」

「どうして?」

「お姉様の形をしているものを、傷つけたくなかったから」


 お姉様が黙っていた。

 しばらく、何も言わなかった。


「……馬鹿ね」と小さく言った。

「そうかもしれません」とわたしは言った。「でも、後悔していません」

「どうして?」

「お姉様がいつもしてくれていることを、わたしがしたかっただけですから」


 お姉様の体が、もう一度震えた。

 今度は笑っているのか、泣いているのか、わからなかった。


「……本当に」とお姉様が言った。「よかった」

「わたしも」とわたしは言った。「戻ってこられてよかったです。お姉様に、また会えてよかったです」


 



  



 わたしはルネ様が前に現れた瞬間を、少し離れたところから見ていた。


 鏡から出てきた直後だった。


 足が地面に触れて、広間の空気を吸い込んで、視界が戻ってきた瞬間——隣でルネ様がリアン様に向かって動いた。


 見ていた。

 見ていられなかった。

 でも、目が離せなかった。


 ルネ様がリアン様に抱きつく。珍しかった。あのルネ様が、自分から抱きつくことが——珍しかった。


 二人がそのままでいた。

 ルネ様の背中が見えた。肩が、微かに震えていた。


 わかっていた。

 最初からわかっていた。

 月の夜にリアン様と話したとき、すでにわかっていた。「お姉様を守るための力が欲しい」と言ったリアン様の声を聞いたとき、すでにわかっていた。


 夜、回廊で光を灯したり消したりしながら、言わない選択をした。来ていいと言ってもらえるだけで十分だと思った。


 でも。

 わかっていたことなのに。

 心が抉られた。

 わたしが今この瞬間、何よりも欲しかったものを——隣の少女が享受していた。


 吐きそうだった。

 胃の底から何かが込み上げてくる感覚があった。押さえた。

 泣いてしまいそうだった。

 

 目の奥が熱かった。でも、泣けなかった。ここで泣いたら、何が悲しくて泣いているのかわかってしまう。


 涙を堪えた。

 歯を食いしばった。

 二人の方を、見ないようにした。


 でも、見てしまった。

 リアン様がルネ様を抱き返していた。「戻ってきましたよ」と言っていた。ルネ様が「本当によかった」と言っていた。


 それだけのことだった。

 それだけのことが、どうしてこんなに——


「オーレリア様」


 従者が来ていた。


 いつの間にか隣にいた。声が静かだった。


「無事ですか」

「……無事です」とわたしは言った。声が、少し変だった。でも言った。


「傷が」


「少し。大したことありません」


「手当てを——」


「後でいいです」とわたしは言った。「今は、大丈夫です」

 従者が少し間を置いた。

「……見ましたよ」と言った。「鏡の中で、ずっと戦い続けていたのを」


「見えないはずですが」


「漏れてくる魔力の波形で、少し。消耗が限界に近い状態でも、倒れなかったことはわかりました」

「……そうですか」

「なぜ倒れなかったんですか」と従者聞いた。少し間を置いた。

「向かう先が、見つかったからです」とわたしは言った。

「向かう先、というのは」

 答えなかった。

 従者追及しなかった。

二人でしばらく、黙っていた。

「オーレリア様は」と従者が言った。「よく戦われました」

「結果は」

「結果はまだわかりません。でも、戦ったことは確かです」

「……」

「供物をお持ちですね」従者が、わたしの手を見た。黒い鱗が、握られていた。「それが証拠です」

 鱗を見た。


 鏡の中で、最後の魔力を全部注いで放った光の証拠だった。向かう先が見つかったときの光の証拠だった。


 ルネ様が見ていてくれているという感覚が、あの光を作った。


 醜いと思っていた。自分の動機が醜いと思っていた。

 でも——あの光は、わたしの中で一番眩しかった。


「わたしは」とわたしは言った。「ずるい人間です」

「どうしてですか」

「諦めると決めたのに、諦められていない」

「それのどこがずるいんですか」と従者が言った。

「言わないと決めたのに、行動に出てしまっているから」

「言わないことと、感じないことは違います」静かに言った。「感じていることは、ずるくない。ただ、感じているというだけです」


 わたしは少し間を置いた。


「……従者さんは」

「はい」

「わたしが何を感じているか、わかっていますか」

「わかっています」と従者が言った。「ずっと前から」

「それでも」

「それでも、ずるくないと思います」


 目の奥がまた熱くなった。

 堪えた。


「ありがとうございます」とわたしは言った。「でも、ずるいです。自分でわかっています」

「……そうですか」

「でも」

「でも?」

「向かう先が見つかりました」とわたしは言った。「それは、本当のことです。ずるいと思いながらでも——見つかりました」


 従者が少し間を置いた。

「それで十分だと思います」そう言った。「向かう先があるなら、ずるくても、そうでなくても、光は光です」


 前を見た。


 ルネ様とリアン様が、まだ抱き合っていた。

 

 抉られた。


 でも——今回は、少し前と違った。

 抉られながらも、わたしの手の中に鱗があった。あの光の証拠があった。向かう先があったから出た光の証拠があった。


「十分です」とわたしは言った。


 ルネ様に言ったのか、自分に言ったのかは、わからなかった。


 今日のわたしに、これだけのことができた。向かう先を持った光が出せた。

それで、十分だった。そう、そのはずなのに……


「オーレリア」


 その人から、名前を呼ばれた。

 1番名前を呼ばれたい人から。


「ルネ…さま」

 

 溢れた。涙が。もう、わけがわからなかった。押し込めていた感情が溢れて、もう止まらない。


 わたしはルネ様に抱きついた。

 ルネ様は、わたしの背中を優しくさすってくれた。

 それだけで、救われた気がした。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る