第49話 世界線

 鏡の中は、森だった。


 どこかで見たことがある森。でも、どこかはわからない。木が高く、光が差し込んでいた。

 

 差し込む光の角度が、午後の光に似ていた。地面に草が生えていて、踏まれた跡がある。風が吹いて、葉が揺れる音がした。


「ここは」と声に出した。


 一人だった。


 オーレリア様はいなかった。鏡に入るとき、隣にいたのに、今は一人だった。鏡の中に入ったら、それぞれ別の空間に繋がるのだとわかった。


 足元を見る。草が踏まれていた。前に誰かが歩いた跡だ。でも最近のものではなかった。少し前のものだった。


 気配があった。


 大きかった。


 森の奥から、何かが近づいてきている。速くはなかった。でも確実に近づいていた。待ってもらっているような、準備ができるまで来ないでいるような、そういう近づき方だった。


 来るとわかっていても、逃げなかった。

 これが審査だからだ。


 倒して供物にしなければならなかった。逃げていては始まらなかった。


 術式を組んだ。収束型の光魔法を準備した。一点に密度を集める型。大型の相手には、拡散型より収束型の方が通りやすいと審査の前に考えていた。


 気配が、近くなった。


 木の間から、それが現れた。


 大きい。


 光る毛並みを持つ、巨大な獣だった。四つ足で歩いていた。体の輪郭から、光が滲み出ていた。昔、故郷のクロワール辺境伯領の山で見たシカに少し似ていた。頭部に冠のような角があり、その先端が光っていた。目が金色だった。


 その目が、わたしをまっすぐ見据えていた。


 神獣に近いものだとわかった。

 見た瞬間にわかった。これは普通の魔物ではなかった。害意がなかった。でも圧力があった。存在しているだけで、周囲の空気が変わった。


「あなたが——」と言いかけた。


 その獣の目が、光った。

 金色の光が、じわりと広がった。

 次の瞬間——景色が変わった。


 森が消えた。

 見覚えのある場所だった。

 学院の図書館の地下だった。いつもの席だった。文献が積まれていた。窓から差し込む光の角度が、いつもの午後と同じだった。


 向かいの席に、人が座っていた。


「お姉様」


 声が出た。

 白い髪、淡い紫色の瞳、いつもの制服、腰に銃。文献を読んでいた。ページを繰っていた。


「お姉様?」


 顔が上がった。「なに」といつもの声で言った。

 わたしは椅子を引いた。反射的に、いつもの場所に座ろうとした。

 途中で、止まった。

 頭の中で整理した。

 獣が目を光らせた直後に、景色が変わった。これは幻覚だ。神獣が作り出した幻覚だ。何かの力を使って、わたしの記憶から何かを引き出しているのだ。


 でも。


 顔も声も、姿形も全部、お姉様だった。

「わかっています」とわたしは言った。立ったまま言った。「あなたはお姉様じゃない」

向かいの人が、少しだけ表情を変えた。


「そう」と言った。「でも」

「でも」

「いつまでそう言っていられる?」お姉様の声で言った。「わたしの顔、わたしの声。わたしはわたしとして、あなたに語りかけている」


「わかっています」

「本当に?」


 お姉様が立ち上がった。

 次の瞬間、また景色が変わった。



 目眩がした。

 立っているのがやっとだった。体が傾く感覚があったが、倒れなかった。

 気がつくと、廊下に立っていた。


 見覚えがある廊下だった。でも、学院でも神殿でもなかった。赤い絨毯が敷かれていた。クロワール邸の廊下だった。


 前に、お姉様の姿をしたものが立っていた。


「あんたのせいよ」


 お姉様の声で言った。でもいつもの声の質とは違う。何かが乱れていた。張り詰めていた。


「お父様もお母様も、あんたしか見ない」とお姉様の姿をしたものが言った。「あなたさえいなければ、わたしは、わたしは——」


 闇属性の魔法が展開された。


 黒い影のような形をした魔力の塊が、わたしの方に来た。喉元に迫ってきた。

その様子を見ていた。


 なぜか、怖くなかった。


 怖いはずだった。お姉様の顔をしているものから攻撃が来ていた。でも体が震えなかった。手が止まらなかった。


「お姉様は」とわたしは言った。「そういうことを言いません」


 直後、黒い影の手が、わたしの首を押さえつけた。


 首を絞められた。息ができなかった。唾液が頬を伝い、絨毯に落ちた。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 苦しかった。息ができなかった。それでも、攻撃を受けるのをやめなかった。酸素が薄くなり、意識がぼんやりし始めても、わたしは決して抗おうとはしなかった。


 不意に、影が手を緩めた。


「怖くないのか」


 お姉様の形をしたそれは、そう聞いてきた。

「怖いです」とわたしは正直に言った。「お姉様の顔をしているから、怖いです。攻撃できません。でも、偽物だとわかっています」

「わかっていても、攻撃できないのか」

「できません」

「なぜ」

「お姉様の形をしているものを、傷つけたくないから」

「あなたは臆病ね」


 首を絞める力が強まった。脳が酸素不足でチカチカする。世界が、ひどく遠くなった。


「わたしに守られることしかできない。わたしの後ろで震えることしかできない。あなた一人では何もできない。わたしを倒すこともできない」


「お姉様は、そんなこと言わない」


 空気が水のように重くなった。でも、お姉様の形をしたそれの言葉は、全くわたしには響かなかった。お姉様じゃないものの言葉なんて、全く効かなかった。


 首を絞める力が弱まった。


 わたしは一気に間合いを詰めた。


 お姉様の形をしたものが、ゆっくり目を伏せた。


 わたしは光魔法を行使——しなかった。


 代わりに、お姉様の形をしたそれを、そっと抱きしめた。


「もう大丈夫です」


 声は上擦ってしまった。それでも、言った。


「わたしが守りますから」



 抱きしめた腕の中で、何かが変わった。

 最初は何も起きなかった。でも、少しずつ——お姉様の形をしたものが、震えた。

強く抱きしめた。


「お姉様がいつもしてくれているから」とわたしは言った。「今度は、わたしがします」

「……」

「ずっと、していただいていました。廃工場でも、神殿でも、祭りの夜も」わたしは続けた。「いつもお姉様が先にいて、いつもわたしが守られていた。でも今日は——」

腕の中が、もう一度震えた。

「わたしが、ここにいます」


 何かが崩れる音がした。


 音ではなかった。感覚だった。腕の中の何かが、少しずつ重さを失っていった。


 目を開けると、お姉様の形が消えていた。


 金色の光の粒が、空気の中に溶けていった。一粒ずつ、静かに。急がずに。


 景色が、また変わった。


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