第48話 鏡
星輝鏡は、神殿の最奥にあった。
普段は封じられている場所、という雰囲気がある。二重の扉と、術式による封印が施されていた。今日のために封印が解かれているのだろう。扉が開いた状態で、廊下の突き当たりにそれはあった。
大きかった。
高さは天井近く。幅は人三人分ほどだった。枠は古い金属で作られていて、星の紋様が刻まれていた。長い年月が枠に積み重なっていた。磨耗の跡があった。何度も触れられた痕跡があった。でも鏡面は傷一つない銀色だ。
普通の鏡とは違った。
深かった。
表面を見ているのに、奥に何かがある気がした。遠くに続いている気がした。近づくほど、奥が見えない感覚が強くなった。引き込まれるような、でも引き込まれるのが怖いような、そういう感覚だった。
感知を展開した。
鏡の内側から外に向かって、魔力の流れがあった。滲み出るような流れだった。澱んでいた。普通の魔力の流れではなかった。生き物の気配に近かった。
一つではなかった。
複数いた。
でも種類が違った。一方は大きかった。重かった。もう一方は、さらに大きかった。規模が違った。同じ空間の中に、次元の違う二つの気配があった。
心臓が喉元まで迫り上がってくる感覚がした。息の通り道が塞がれる。呼吸の仕方を忘れたみたいに、肺がぎこちなく軋んだ。
「これが、星輝鏡」
いつの間にか隣に来ていたオーレリアが言った。
「知っていたの?」
「昔、書物で読みました」オーレリアが言った。「神殿最古の魔術装置だそうです。内側に封じられた空間があって、審査者はその空間の中で何かと戦う。外の時間とは流れ方が違うとも書いてありました」
「廃止されたはずよ」
「そう書いてありました。あまりに過酷だったため、と」オーレリアが鏡を見た。「ルネ様がおっしゃっていたように。でも——使われることになった以上、やるしかありません」
「怖い?」
「怖いです」とオーレリアが即座に言った。「でも」
「でも」
「負けたくありません」
「リアンに?」
「リアン様に、ではなく」オーレリアが少し間を置いた。「怖気づく自分に」
少し間があった。
「あなたは正直ね」とわたしは言った。
「ルネ様といると、つい話しすぎてしまいます」オーレリアが言った。「なぜかは……今はわかります」
それ以上は言わなかった。鏡の方を向いた。
「お姉様」
リアンが来た。
わたしはリアンを見た。顔が穏やかだった。怖がっていないわけではないと思った。でも落ち着いていた。
「聞きなさい」とわたしは言った。「やめるのも手よ」
「え?」
「神殿の動きが胡散臭い。廃止されたはずの審査装置が、なぜ今夜使われるのかの説明がない。不意打ちのような審査の発表。何かを隠している可能性がある。危険な匂いがする」
「でも」
「審査を拒否することもできる。今夜だけではなく、別の機会を求めることもできる」
リアンが少し間を置いた。
「大丈夫です」とリアンが言った。
「大丈夫という根拠は」
「お姉様がいるから」
「外にいるだけよ。介入できない」
「わかっています」リアンが言った。「でも——」
少し間があった。
「わたし、お姉様に守られてばかりで」リアンが続けた。「廃工場でも、神殿でも。いつも先に動かれてしまう。いつもお姉様が先にいる」
「護衛だから」
「護衛だからだけじゃないのはわかっています」リアンが言った。「でも——だから、今日は。一人でも大丈夫なところを、お姉様に見ていただきたいんです」
「……」
「見ていてください」とリアンが言った。「外から、ちゃんと見ていてください」
言葉が出ない。やめなさいと言えなかった 「……わかった」とわたしは言った。「見ている」
リアンが頷いた。
儀式の準備が整った。
長老が中央に立った。「審査を開始する。リアン・ド・クロワール、オーレリア・ソレイユ、前へ」
二人が前に出る。
わたしは一歩下がった。介入できない立場。でも感知を最大まで展開した。鏡の外縁部を伝って、少しでも内側の情報を読めるように。何かあればすぐに動けるように。動けないとわかっていても、展開し続けた。
「入りなさい」と長老が言った。
鏡面が揺れた。波紋のように動いた。水面に石を投げ込んだときのように、でも音はなく、ただ銀色の表面が揺れた。
リアンがわたしを振り返った。
一瞬だけ、目が合った。
「行ってきます」と口が動いた。声には出なかった。
「行ってらっしゃい」とわたしも口だけで言った。
リアンが鏡に向かって歩いた。
鏡面に手が触れた。
触れた瞬間、鏡面がリアンの体を包んだ。光が出た。銀色の光が、リアンの輪郭を縁取った。それが一瞬だけあって——消えた。
リアンが、消えた。
オーレリアが続いた。鏡面に触れた。同じように光が出て、消えた。オーレリアが消えた。
二人がいなくなった。
広間が静かになった。
物言わぬ鏡だけが、そこに残っていた。さっきまで二人が立っていた場所に、何もなかった。
感知を鏡の内側に向けた。
外からは限界があった。でも鏡の外縁部を伝って、わずかに内側の気配が読めた。
リアンの光魔力があった。
動いていた。
何かと対峙していた。
その「何か」の魔力が——大きかった。人工魔獣や通常の魔物とは次元が違う密度だった。廃工場のケルベロスより重かった。神殿の爆発術式より規模が大きかった。
「感知で何か見えるか」とエドヴァルトが来て言った。
「リアンが何かと対峙している。規模が大きい」
「危険か」
「今はまだわからない。でも——」
「どうした」
「魔力の質が、変な方向に動いている」
「変な、というのは」
「リアンの光魔力が、乱れ始めている」とわたしは言った。「動揺しているときの波形よ。でも——おかしい」
「何が」
「消耗は増えている。攻撃を受けているのかもしれない。でもリアンは反撃していない。攻撃の魔法を展開した気配がない」
「なぜ反撃しないんだ」
「わからない」
鏡を見た。鏡面に何も映っていなかった。でも奥に、確かに何かがあった。感知が拾い続けていた。リアンの光魔力が、揺れていた。
「リアンが、何かに戸惑っている」
怖いときでも、迷っているときでも、リアンの光魔力はいつも温かかった。揺れていても、温かさは変わらなかった。
でも今夜は、温かさが揺れていた。
それが何を意味するのか、わかった気がした。
「何が出たんだ」とエドヴァルトが言った。
「わからない」とわたしは言った。「でも——リアンが、動けない理由がある何かが、いる」
鏡の前から離れなかった。
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