第44話 過去

 ヴェスペラが後退した。弾は外れたが、間合いが開いた。


「……核に触れたか」ヴェスペラが言う。「収束の起点ではなく、核に直接干渉したのか」

「起点は守られていた。でも核は守っていなかった」

「なぜ守る必要がないと思った」

「収束型の術式で、核が直接干渉されることは想定していないから。術式の設計上、核は自然に守られているという前提がある」

「でもあなたは干渉した」

「術式の設計思想の隙間を読む。どこが想定外かを探すのが得意よ」


 言うなれば、文章題から作問者の意図を探すようなもの。難しいことではなかった。


 ヴェスペラが黙っていた。


「聞いてくれるか」とヴェスペラが言った。「わたしの話を」

「戦いながら?」

「戦いながらで構わない」

「……続けなさい」


ヴェスペラが話し始めた。

術式を展開しながら、言葉を出した。攻撃を止めなかった。でも先ほどまでの圧力とは少し質が変わっていた。

確かめるような攻撃だった。


「わたしはソレイユ家の愛人の子として生まれた」


 干渉域で受けながら、聞いた。


「屋敷の中で透明だった。名前を呼ばれなかった。使用人より少し上で、家族より遥かに下だった」

「腹違いの妹のルミエールだけは、名前を呼んでくれた」

「……なぜそれを」

「さあね」


 もちろん、ゲームで知っているとは言えなかった。

 ヴェスペラの術式の圧力が一瞬上がった。ルミエールの名前に反応したのかもしれなかった。


「ルミエールが聖女候補として選ばれて、会えなくなった」とヴェスペラが続けた。「釣り合う人間になろうと思った。王国魔法軍に入った。十年で将校になった。でも」


 光が左右に分かれた。干渉域を二分割した。


「ルミエールが突然死んだ。聖女として。わたしは新聞で、それを知った」


 声が低かった。でも震えていなかった。震えるような柔らかさが、もうそこにはなかった。「神殿の発表は病死だと。聖女として光を灯し続けた美しい最期だ、と」

「それが許せなかった、そういうことね」

「美しくなかった」


 ヴェスペラの光の密度が上がった。


 干渉域が薄くなった。追加の魔力を注いだ。鋸触性が深くなった。思考が少し平坦になり始めた。


 集中した。


「ルミエールは病死じゃない。神殿に殺された」ヴェスペラが言った。「聖女制度は、生贄を決めるための仕組みだ」

 ゲームで全く、不自然に語られていなかった、ルミエールの死因に、わたしは思考の隅が白くなった。


「……陰謀論よ」とわたしは言った。

「そう思うか」

「思う」

「でも」ヴェスペラが言った。「否定できる根拠があるか」


 少し間があった。


 術式を一つ崩した。銃を向けた。引き金を引こうとした。


 でも止まった。


 否定できる根拠が、なかった。


 聖女制度が何のためにあるのかを、わたしは深部まで知らなかった。リアンが候補に選ばれた本当の理由を、制度の外側にいるわたしは知らなかった。ヴェスペラの言葉が完全に間違っているという根拠が、今のわたしにはなかった。


 ゲームではそんな描写はなかった。リアンが聖女に選ばれて、それで終わった。その後の様子は、描写されていない。続編も、アフターストーリーも出ていない。


 リアンが聖女になったとして、本当にそれでいいのかという保証は、どこにもなかった。


「……根拠はない」とわたしは言った。「今は」

「正直だな」ヴェスペラが言った。「あなたはリアンを守ろうとしている。でも守るべき相手が、神殿に殺されるとしたら——」

「黙りなさい」


 声が出た。


 いつもより、少し低かった。


 干渉域を一点に絞った。ヴェスペラの術式の核に向けた。


 全力で入り込んだ。


 核が揺れた。術式が崩れかけた。


 ヴェスペラが後退した。今夜で一番大きく、後退した。

仮面の下の目が、わたしを見ていた。


「……あなたの中に、迷いがある」とヴェスペラが言った。

「確かに、ある」とわたしは言った。「あなたの言葉を否定できないから。でもリアンを渡す気もない。その二つは矛盾していない」

「矛盾している」

「していない。わたしはリアンのためにここにいる。それはあなたの話を聞いても変わらない」

「なぜだ」

「リアンがいる」


 言いながら、それ以上の言葉がなかった。理由として全く的を得ていないのもわかっていた。でもそれが全てだった。


 ヴェスペラが黙っていた。


 長い沈黙があった。


 参道に風が吹いた。ヴェスペラの外套が揺れた。


「あなたは」とヴェスペラが言った。「ルミエールに少し似ている」

「何が」

「言い方が。誰かのためにここにいる、という言い方が」

答えなかった。

「ルミエールも同じように言った。制度は制度、でも神殿の人間が好きだから聖女をやっている、と」ヴェスペラが言った。「その言葉が正しくても、神殿は彼女を使い潰した。好きという気持ちと、制度は別に動く」

「……わかっている」

「わかっているなら」

「でもわたしはリアンの隣にいる。それが今のわたしにできることよ」


 ヴェスペラがまた黙った。


 術式が、少し緩んだ。


 攻撃が続いていたが、圧力が落ちていた。探るような攻撃だった。


「あなたとは、また話したい。今夜ではなく」ヴェスペラが言った。「もっと長く。あなたの言葉を、もっと聞きたい」

「次に会うときも、敵として会う可能性が高い」

「構わない」

「……わかった」


 そのとき、後ろから足音がした。


 複数の足音だった。


 エドヴァルトだった。シリル、ミエル、レヴが続いた。


「街の方は片付いた」とエドヴァルトが走りながら言った。「彼女は」

「今——」


 ヴェスペラが動いた。


 攻撃ではなかった。後退だった。参道の奥、神殿の脇に向かった。

「また話そう」とヴェスペラが言った。「闇属性の術者。あなたとはまだ話すことがある」


 外套が翻った。


 翠色の目が、最後にこちらを見た。


 消えた。


 追いかけようとした。エドヴァルトが「追うか」と言った。


「……追わない」

「なぜだ」

「今夜は、それでいい」


 本当の理由は、追いかけて何をするかが今夜はわからなかったからだった。


 否定できない言葉を残されていた。それを抱えたまま追いかけて、どうする。


「ルネ」とエドヴァルトが言った。「何を言われた」

「色々」

「そうか」


 エドヴァルトはそれ以上聞かなかった。余計なことは、いつも聞かない。

「迷っているか」

「……少し」

 エドヴァルトが少し間を置いた。「それでいい」と言った。

「それでいいの?」

「ああ」とエドヴァルトが言った。「それで十分だろう」





 そのとき、感知が反応した。


 神殿の方角から、異常な魔力の気配がした。


 大きかった。


 術式の気配だった。展開中ではなかった。設置済みの術式だった。起動を待っている状態の、大型の術式だった。


「エドヴァルト」

「どうした」とエドヴァルトが言った。顔が変わっていた。「神殿の内部だ。爆発型の術式が——」


 リアンが神殿にいた。


 走り始めていた。考える前に体が動いていた。


「ルネ——」


 止まらなかった。


 参道を走った。石畳が夜の中に続いていた。

やはり、街の騒ぎは陽動だった。


 ヴェスペラとの戦闘も、時間を取られるための布石だったかもしれない。


 本命は最初から神殿だった。


 走りながら、それだけを考えていた。


 感知の中に、リアンの光魔力がある。


 どうか、無事で。祈りながら走った。

 

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