第41話 ヴェスペラという女

 神殿から学院への帰り道は、いつも同じ馬車を使っていた。


 神殿が手配する、黒塗りの馬車。窓に薄いカーテンがかかっていて、外からは中が見えない。護衛が二人、馬車の外にいた。


 揺れが心地よくて、うとうとと眠気を誘う。


 神殿での儀式は長かった。立ち続けていた時間が長くて、足に疲労が溜まっている。背もたれに少しだけ体を預けた。聖女候補として、あまり褒められた姿勢ではないと思いながら——でも今は誰も見ていないなら、いいかと思った。


 窓の外を眺める。


 木々が続いていた。神殿から学院への道は、森を抜ける区間がある。昼間でも少し薄暗い場所だった。


 木々の間から、白昼の月が見えた。その瞬間、あの人の顔が浮かぶ。

 

「ルネ様……」


 研究室でのこと。唇の柔らかい感触。驚いたような目。


 そっと、自分の唇を撫でる。あの時の感触を、自分でも驚くくらい鮮明に覚えている。このままずっと覚えていて、一生の宝物にしたい。そう思った。


 

 心地よい揺れに、瞼が重くなり始めたころだった。


 馬車が、止まった。


 馬の嘶きが聞こえた。御者が何かを叫んでいた。


 わたしは背筋を伸ばした。


 外で声がした。護衛の一人が「何者だ。どけ」と言っているのが聞こえた。


 人が立っているのだろうと理解した。


 でも馬車は動かなかった。


「オーレリア」


 声がした。


 馬車の外からだった。でも——近かった。馬車の扉のすぐ外から聞こえた。


「黙ってわたしのところに来てくれないか」


 低い声。女性の声だった。


 どこかで聞いたことがある、という感覚があった。でも思い出せなかった。記憶の中の、ずっと奥の方にある声のような気がした。子どものころに聞いた何かに、質が似ていた。


 でも思い出せない。


 扉を少し開けた。


 馬車の前に、一人の女が立っていた。


 170センチはあるだろうか。すらりと背が高かった。長い外套を纏っていて、顔に仮面をつけていた。白い仮面の奥に、目だけが見えた。


 翠色だった。


「知らない人についていかないようにと、亡き母に教えられましたので」


窓越しに言った。声を落とさなかった。聖女候補として、動じていないように見せることは、訓練の中にあった。


 仮面の向こうで、目が動く。


 何かを感じた。でもそれが何かは、わからなかった。


「誰だ」


 護衛の一人が前に出た。馬車と女の間に立った。「通行の邪魔だ。どけ」


 女が右手を上げた。


 一瞬だった。


 光が展開された。収束型だった。密度が高い。護衛が二人、それぞれ別の軌道で吹き飛んだ。草の上に落ちた。意識はあるようだった。でも動けなかった。


 馬車の周囲が静かになった。


 御者が止まっていた。動けないでいるのか、動かないでいるのかわからなかった。


 女がまた扉の前に立った。


 距離が近い。


「わたしは知らないものではない」


 低い声で言った。


 手が上がった。仮面に触れた。


 外した。


 顔が見えた。


 白に近い金色の髪だった。翠色の目だった。年齢は——40前後に見えた。でも目が若かった。何かを抱えたまま生きてきた人間の、老いていない目だった。


 見覚えがあった。


「……ヴェスペラ叔母様」


 声が出た。


 ヴェスペラ・ソレイユ。


 お母様が亡くなってから行方不明になっていた、わたしの叔母。わたしのお母様の、腹違いの姉。


 ソレイユ家の象徴である翠色の目が、目の前の女性の顔にあった。


 ヴェスペラが——少し目を細めた。


「会いに来るのが遅くなった」


 それだけ言った。


 わたくしは馬車の中に座ったまま、動けなかった。


 母の名前を呼んでいいのか、呼ばない方がいいのか、何を聞いていいのかが、一瞬でわからなくなった。


「……なぜ、今になって」

「事情がある」ヴェスペラが言った。「馬車の中での話は向かない。来てくれるか」

「護衛が倒れております」

「命に別状はない。しばらくすれば動けるようになる」

「それは」わたくしは言葉を選んだ。「叔母様の腕前ならばそうでしょうとも、そのような手段を用いる方についていくことは——」

「そうだな」ヴェスペラが少し間を置いた。「強引だった。詫びる」

「詫びるとおっしゃるなら」

「ただ」ヴェスペラが続けた。「正面から来ても、会えないと思った。ソレイユ家はわたしを拒絶している。神殿も、わたしが近づくことを許さない」

「……それは」

「あなたに会いたかった」ヴェスペラが言った。「ルミエールの娘に。それだけだ」


 ルミエール。


 母の名前だった。


 その名前を、その声の質で呼ばれたことが——胸の奥で何かを動かした。

 

「一つだけ、お聞きしてもいいですか」

「なんだ」

「伯母様は」わたくしは言った。「凡愚の祈り教会と、関わりがおありですか」


 ヴェスペラが止まった。


 目が動いた。


 答えなかった。


 答えなかったこと自体が、答えだった。


 わたくしは少し間を置いた。


「……学院に戻ります」とわたくしは言った。「護衛の方々の手当てをしなければなりません」

「そうか」

「ですが」

ヴェスペラを見た。


「母のことを、いつかお聞きしたいと思っています」


 ヴェスペラが、少しだけ目を細めた。今度は先ほどとは違う細め方だった。


「いつか」と言った。「待っている」


 仮面を、また顔に当てた。


 外套が揺れた。


 森の中に消えていった。


 馬車の前の道が、空いた。


 御者がゆっくりと手綱を動かした。馬が歩き始めた。護衛の二人が、草の上でようやく体を起こしていた。


 揺れが戻った。


 窓の外を見た。木々が流れていった。


 母の名前を呼んだ声の質を、頭の中で繰り返していた。


 悲しみがあった。


 怒りではなかった。憎しみでもなかった。


 ただ、古い悲しみがあった。


 学院に戻ったら——ルネ様に話すべきかどうかを、揺れの中で考えていた。

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