第39話 間一髪
間に合わない。
そう判断した、次の瞬間。
ケルベロスの体が、前のめりに沈んだ。
地面が鳴った。
着地ではなかった。足元が崩れたのだった。乾いていた土が、一瞬で泥に変わっていた。水属性の術式だ、というのは、遅れて気付いた。地中の水分を引き出して、地表を急速に軟化させた——足場を根こそぎ奪う形の水魔法だった。
ケルベロスの体重が、崩れた地面に沈んだ。三つの頭が別々の方向に揺れた。体勢を立て直そうとする動きが、沈み続ける足元に妨害されて続かなかった。
「クールに登場。できましたかね?」
ミエルが立っていた。
両手のひらが地面に向いていた。水魔法の展開を維持したままだった。術式を解いたら地面が戻る。それをわかっていて、維持し続けていた。
隣にはレヴがいた。
風がわずかに流れていた。感知の索敵とは違う流れだった。対象の動きを読むための風。ケルベロスの周囲の空気を薄く走らせて、筋肉の緊張と重心の移動を感知していた。
「ボクが動きを読む。ミエルが足元を取る。あとは頼む」
視線はケルベロスに固定されていた。後はという言葉が、何を意味するかを説明しなかった。でも十分だった。
ケルベロスが立て直そうとした。
泥の中で三本の脚をかかえ、残った一本に体重を乗せようとした。
「右前足、跳ぶ」
レヴが言った。
右の頭が動いた——その通りだった。軌道は読まれていた。
ミエルが右手だけ地面から離して、そちらに向けた。地面ではなく空中に水を展開した。霧状にした水が右の頭の視界を一瞬だけ塞いだ。標的を見失った。噛みつきが外れた。
左手はまだ地面を向いていた。
「沈んでくださいね」
静かな声だった。
足元がさらに深くなった。ケルベロスの体が膝まで沈む。速度が、完全に止まる。
足止めは十分だった。
視線をリアンに向ける。言葉は要らなかった。
リアンが頷いた。
「やるわよ。共鳴」
「はい」
距離を詰めた。
ケルベロスが沈んでいる。動けない。中央の頭がこちらを見ている。防壁を展開しようとしていた——魔力が収束し始めているのが感知でわかった。
一歩。二歩。
防壁が完成する前に、唇が触れた。
光魔力が闇魔力に触れる。弾かなかった。境界が溶けた。混ざった。光でも闇でもない、どちらでもある領域が展開される。
ケルベロスの防壁術式が、霧散した。
その空白は一瞬しか続かない。
照準を合わせた。
中央の頭——額の中心を。
引き金を引いた。
一発。乾いた音がした。
弾道は真っ直ぐだった。防壁はもうない。ケルベロスの中央の頭が後ろに揺れた。
巨体が揺れた。
左右の頭が別々の速度で垂れた。三本の脚から力が抜ける。体重が一度に沈んで、泥の中に倒れた。
地面が揺れた。
音が、森に沈んだ。
静かになった。
ミエルが地面への術式を解いた。土が少しずつ固まり始めた。レヴが風を止めた。感知の流れが消えた。
わたしは銃を下ろす。
呼吸を整えた。
隣に、リアンがいることを確認した。
「終わりましたか」とミエルが言った。
「終わった」
「クールに仕留めましたね」
「……あなたのおかげよ。足を取らなかったら間に合わなかった」
「そうですか」ミエルが少し目を丸くした。「ルネさまに褒められました。クールです」
レヴが「ボクの索敵も機能した」と言った。中二病の口調だったが、声が少し高かった。
「そうね。あなたの合図があったから動けた」
レヴが黙った。耳が赤かった。
「……当然だ」と言った。
リアンが「ミエル様、レヴ君、ありがとうございました」と言った。「来てくれてよかったです」
「来てよかったです、ボクも」とミエルが言った。
「クールでしたよね、今の連携」
「クールだった」とルネは言った。
ミエルが「ルネさまに二回目の褒め言葉をいただきました」と言った。「今日の実習はいい日です」
レヴが「騒ぐな」と言いながら、でも口元が少し緩んでいた。
「リア……んっ──」
背中に回される手。唐突に、唇が、何かに塞がれた。一拍遅れてやってくる、柔らかさ。リアンの唇だった。リアンがわたしに抱きついて、キスをしていた。感極まってるんだなあって、どこか他人事みたいな感想があって。頭の奥がぼーっとして。一度、唇が離れる。
「ぷは。あなた、何して……んっ──」
咎めようとして、また唇が塞がれた。キスに黙らされた。そんな感覚だった。リアンにはとても似合わない、暴力的なキスだった。
ひとしきり唇が押し付けられた後、ようやく解放された。ちゅっ、と音が鳴る。
視線の端で、レヴが顔を真っ赤にしてこちらを見ている。ミエルが視線を逸らしていた。
森が静かだった。しばらく、誰も何も言わなかった。
倒れたケルベロスの魔力が、少しずつ薄れていった。
「それにしても、なんでケルベロスがこんなところに」ミエルが、誤魔化すように言った。
「は?え?今のなかったことにするの無理だろう」
顔が真っ赤なまま、レヴが言う。レヴには刺激が強い光景だったようだ。
リアンは、しばらく惚けたようにこちらを見ていた。その瞳に写るわたしも、似たような顔をしていた事実は忘れることにした。リアンがハッとして、言う。
「すみません。わたしったら感極まって、我を忘れてしまって。許してください」
本当に我を忘れていたのか。その言葉の真偽を、今は考えないことにした。
「ええ。感極まってしまっただけ。そうよね」
高鳴る心臓を誤魔化すように、わたしはそう言った。
無理やり、ケルベロスのことを考える。
ケルベロスの生息域とはだいぶ離れている。人為的に連れてこられたとしか思えなかった。
『凡愚の祈り教会』。その名前が頭をよぎる。
彼らはリアンを狙っている。そのために、ケルベロスをけしかけた。そう思うのは自然なことだった。
植物採集用のカゴが、地面に転がっていた。きのこが一つ、こぼれていた。
「続きをやらないといけないわね」とわたしは言った。
全員が少し間を置いた。
「……やるのか?」とレヴが言った。
「課題だから」
「でも今ケルベロスが」
「倒した。課題は残ってる」
ミエルが「クールですね」と言った。
わたしはカゴを持った。唇に残った情熱的なものから、目を逸らすようにして。
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