第30話 選択

 夜の回廊に、一人でいた。

 

 神殿の古い回廊だった。昼間は人が行き来しますが、夜になると誰もいなかった。石造りの廊下に、外からの月明かりだけが白く差し込んでいた。


 右手を上げる。


 光を灯す。


 手のひらの上に、生まれた、小さな光を、わたしは広げなかった。収束させたままにしました。ただ、そこにあるだけの光。


 消して、また灯して、消して。それを繰り返していた。


 なぜこのようなことをしているのか、自分自身よくわからなかった。眠れなかった。それだけのことだった。眠れない夜に回廊へ出て、光を灯したり消したりしている。聖女候補として、あまり褒められた姿ではない。


 でも誰も見ていなかった。


 頭の中にあるのは、ルネ様のことだった。


 研究室でお話しした時間のことを、何度も思い返していた。


 闇魔法の話を聞いた。銃を携帯している理由を尋ねた。干渉実験の記録についても聞いた。でも途中から、研究の話ではなくなっていた。


「リアン様はいつも図書館にいらっしゃるんですか」と、わたくしは尋ねた。ルネ様の答えを聞いたとき、胸の中で何かが動いた。その何かの正体が、今ならわかる気がする。


 月の夜に、リアン様とお話ししたことを思い出す。


「力が欲しいんです」とリアン様は言った。「力があれば、どんな理不尽からも、どんな偏見からも、お姉様を守れる気がして」


 お姉様を守るための力。


 それがリアン様の動機。


 聖女候補として何のために力を持つのかと問われたとき、リアン様はすぐに答えを言った。ためらいはなかった。誰かのために、という言葉が自然に出ていた。


 わたくしには、そのような答えがなかった。


 なぜ聖女になりたいのかわからない——あの夜、正直に言った。生まれたときから当たり前だと言われていたから、なりたいのかならなければならないと思っているのか、わたし自身にも区別がつかなかった。

でも今なら、少し違うことがわかる気がしていた。


 廊下で倒れていたところを、ルネ様に見られた夜のことを思い出した。


 顔を見られたくなかった。でも月光で顔が見えてしまった。


 ルネ様が近づいてきた。


 距離を取ろうとした。でもルネ様は「無理しなくていい」


 それだけだった。


 同情でも、大げさなご心配でもなく、ただ、事実として言った。

医務室に連れていってくれた。途中、ルネ様の手が腕に触れていた。引かれるというより、支えてくださっていた。


「倒れてもいいと思う。人間だから」


 その言葉が、一番残った。


 聖女候補として倒れてはならないと思っていた。倒れることを恥だと思っていた。でもルネ様は「倒れてはいけない人間などいない」と言っていた。事実として言っていた。


 誰にも、そのようなことを言ってもらったことがなかった。


 あれから、ルネ様の姿を見ると、手に汗がじわっと滲むようになった。その感情の正体に気づくのは、時間がかからなかった。ルネ様は女性で、私も女性だということは不思議と考えることはなく、ただ、そういうことなんだとすんなり受け入れた。


 光を灯した。

 今度は少し広げた。手のひらから、腕の先まで。


 制御した光。これがわたくしの光の形。精密で、無駄がなく、どこへ向かうかを常に把握している光。


 でも、それでいいのか。


 審査の場で、リアン様の光を見た。温かった。量でも精度でもない何かがあった。誰かへ向かっている光だった。向かう先が決まっている光だった。

わたくしの光には、向かう先がない。


 いいえ——ないわけではなかった。


 ある、と思う。


 でも——光を向けてはいけないと思った。


 これが何であるかは、わかっていた。最初はわからなかった。研究室で「話しすぎてしまいます」と申し上げたとき、自分自身も驚いた。廊下で倒れたときに態度を変えなかった方が初めてだったと気づいたとき。湧き上がったその感情を、見ないふりしていた。


 でも今はわかっている。


 名前があって、言葉もあって。


 でも、言わない。


 言ってしまったら、何かが終わる気がした。言葉にした瞬間に、形が決まってしまう気がした。形が決まったものは、取り返しがつかない。言わないままの方が——長くいられる気がした。


 リアン様がいる。


 リアン様はルネ様のために聖女になりたいと思っている。ルネ様はリアン様のために学院にいる。二人の間に、外側から見ていてもわかる何かがあった。


 その構造の中に、わたしが入れる場所はなかった。


 月に手を伸ばした。当然、届くはずもなく。月は、手が届かないから美しい。


 わかっていた。最初から、わかっていた。


 でも——来ていい、とルネ様は言った。


「来たければ来ればいい」。何度か言っていた。。来るなと言ったことはなかった。帰れと言ったこともなかった。


 それで十分だった。


 来ていい。隣にいていい。研究のお話を伺っていい。


 言わなくても、来ていい。


 それだけで——今は、十分だった。


 光を消した。


 回廊が暗くなり、冷たい夜に月明かりだけが残った。


 言わないことを選んだ。


 選んだ、ということは——言う言葉を持っていた、ということでもあった。でも、言わない。


 部屋へ戻ろうとして、足を止めた。


 もう一度だけ、光を灯す。


 今度は広げなかった。収束させたまま。手のひらの上に、小さく。


 向かう先を、一瞬だけ決めて。


 誰もいない回廊の、ルネ様がいる方角へ向ける。

 

 一秒だけ。


 そして、消した。


 それで十分だと思った。


 そんな思いを抱えて、その夜、部屋に戻ったのであった。

 

 


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