第29話 聖女候補の弱み

 その日は儀式の夜だった。


 リアンが神殿の行事に参加していた。わたしは従者として帯同していたが、儀式そのものには入れない。石造りの廊下で待っていた。


 儀式が終わって、リアンと合流した。リアンは疲れた顔をしていたが、無事だった。宿に戻る前に荷物を取りに行くというリアンと別れて、わたしは一人で廊下を歩いていた。


 角を曲がったとき、誰かがいた。


 壁に片手をついて、うつむいていた。小さく呻く声が聞こえた。


「大丈夫?」


 近づきながら声をかけた。


「お気になさらず。いつものことですから……うっ」


 廊下に吐瀉物が散らばった。


「ちょっと、本当に大丈夫なの」

「お見苦しいところをお見せしました。自分で片付けますので」


 相手が距離を取った。顔を見られたくないように、こちらに背を向けた。


 そのとき、窓から月の光が差した。


 月光に照らされて、相手の顔が顕になった。


 プラチナブロンドの髪。翠色の目。白い肌に端正な顔立ち。


 オーレリアだった。

「あなた……」

「バレてしまいました」


 オーレリアがバツの悪そうな笑みを浮かべようとしているのがわかった。でも笑えていなかった。

 

 顔が青白い。血色が完全に失われていた。昼間の完璧な立ち姿が、今は壁なしでは立っていられないように見えた。


「医務室に行くわよ」

「お気遣い、結構でございます」

「そういうわけにはいかない」


 オーレリアの手を取った。冷たかった。指先が震えていた。


 歩き出した。オーレリアが引きずられるようにして、渋々後をついてきた。抵抗する力が残っていなかった。


「いつものことって言ったわね」

「……」

「オーレリア」


 呼んだら、少し驚いたような間があった。名前で呼ばれることが少ないのかもしれなかった。


「はい」とオーレリアが言った。「大事な行事の後には、いつも」

「いつから」

「……覚えていないくらい、前から」


 廊下が長かった。オーレリアの足取りが遅かった。急かさなかった。


「誰かに言ったことは」

「ありませんわ」

「なぜ」

「言える相手が、いないので」


 それ以上聞かなかった。


 医務室の扉を開ける。当直の医師が顔を上げて、わたしたちを見た。オーレリアを見て、少し驚いた顔をする。「オーレリア様が」と言いかけて、わたしを見て黙った。


 椅子に座らせた。


 医師が診察を始める間、わたしは少し離れたところに立っていた。


 オーレリアが医師の問いに答えていた。声が低かった。


 しばらくして、医師が処置を終えた。「今夜は安静に」と言って、部屋を出た。


 そして、二人きりになる。


 オーレリアが椅子に座ったまま、自分の手を見ていた。

「困りました」とオーレリアが言った。「オーレリア・ソレイユはこんな痴態を晒してはいけませんのに」

「いいんじゃないかしら」


 わたしは言った。


 オーレリアが顔を上げた。「そんなわけ——」

「体が限界だと言っているのに、誰にも言えずにいた。それは恥ずかしいことではなくて、あなたが一人で抱えすぎていただけよ」


 オーレリアが黙った。


 反論の言葉を探しているようだった。でも見つからなかったらしく、視線を落とした。


「……ルネ様は」オーレリアがゆっくり言った。「どうしてそういうことを、そのまま言うのですか?」

「どういうこと?」

「他の人は、こういう場面を見たら、見なかったふりをするか、大げさに心配するか、どちら。ルネ様は——事実だけを言う」

「事実だから言う。それだけよ」

「それだけ、ですか」


 オーレリアがわたしを見た。今夜何度か見た目だった。値踏みではなかった。確認している目だった。何かを測ろうとしている。


「プレッシャーで胃がやられているのよ」とわたしは続けた。「体の問題ではなく。だから医師に体の話だけしていても、改善しない」

「……医師にそんなことを言ったら、聖女候補として失格だと思われるかもしれない」

「思われないわよ。言いなさい」

「なぜそんなに確信を持って」

「あなたが倒れていなければ関係ない。倒れているから問題なのよ。原因を伝えなければ、また繰り返す」


 オーレリアが少し間を置いた。


「……聖女候補がプレッシャーで倒れているなどと」

「倒れていいと思う」

「え」

「人間だから、倒れる。それだけのことよ。倒れてはいけない人間などいない」


 オーレリアが黙った。


 長い沈黙だった。医務室の外で、廊下を誰かが歩く音がした。遠くなっていった。


「……誰にも、そういうことを言ってもらったこと、ありませんでした」とオーレリアが言った。声が少し違った。さっきより低くなっていた。

「そうでしょうね」


「今夜は休みなさい」とわたしは言った。「明日また」

「明日も、お会いできますか?」

「リアンがいるから、わたしもいる」

「それは——リアン様のためにということですね」

「そうよ」


 オーレリアが少し俯いた。でも不満そうではなかった。わかっていた、という顔だった。

「そうですね」と言った。「それで十分です」

扉に向かった。途中で振り返った。

「ルネ様」

「なに」

「ありがとうございました。今夜は」

「どういたしまして」


 オーレリアが出ていった。


 医務室に一人残された。


 しばらくして、廊下に出た。


 リアンが向こうから歩いてきた。「お姉様、どこにいたんですか。荷物持ってきましたよ」

「少し用事があった」

「誰かといたんですか? さっき、医務室の方から来ましたよね」

「……医務室に人を送っただけよ」


 リアンが少し首を傾げた。でも追及しなかった。「行きましょう」と言って歩き始めた。


 月明かりが廊下に差し込んでいた。



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