第28話 2人の聖女候補

 月を見ていた。


 満月の晩の、丸い月だった。


 神殿への出頭がある日は、宿に一泊することが多い。学院から神殿まで距離があるから、日帰りでは体に負担がかかる——そういう理由だった。


 毎回お姉様がいるわけじゃない。今回みたいに、別の用事があって、来れないこともある。


 そういう夜が、私は苦手だった。


 お姉様がいないから。


 だから月を見ていた。


 お姉様と会えない夜は、こうして月を見ていた。


 同じ月をお姉様も見ているかもしれない、と思うと、なんだか近くにいるような気がした。学院を出発する朝、お姉様が「気をつけて」と言った。それだけだったけど、それだけでよかった。


 恋人石をポケットの中で握った。冷たかった。それが、自分の体温で、少しずつ温まっていく。


「ごきげんよう。リアン様」


 声がして、振り向いた。


 オーレリア様が立っていた。宿の廊下から中庭に出てきたところだった。夜着の上に薄い上着を羽織っている。昼間の完璧な装いとは違う、普段着に近い格好だった。


「ごきげんよう。オーレリア様」


わたしは頭を下げた。


「何をしていらっしゃるのですか?」

「月を、見ているんです」

「月を」オーレリア様が空を見上げた。満月が中天にあった。「一人で?」

「はい。こうしていると、お姉様と繋がっている気がするので」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。笑われるかもしれないと思った。聖女候補が、姉と繋がりたくて月を見ているというのは、子どもっぽく聞こえるかもしれなかった。


 でもオーレリア様は少しも笑わなかった。


 少し考えるような間があった。月を見たまま、何かを測るように黙っていた。


「わたしも、ご一緒していいですか?」

思いがけない言葉だった。

「いいですよ」


 オーレリア様がわたしの隣に腰を下ろした。中庭の縁石に、二人並んで座る。昼間は神殿の関係者に囲まれて、常に完璧な姿勢でいたオーレリア様が、今夜は少し肩の力が抜けているように見えた。


「美しゅうございます」オーレリア様が言った。

「ええ」


 月明かりが中庭の石畳を白く照らしていた。木の影が地面に伸びている。静かだった。神殿の宿は厚い石造りで、外の音がほとんど入ってこない。だから余計に、二人でいる静けさが際立った。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 悪くない沈黙が流れる。オーレリア様といると、こういう沈黙が自然にある、とわたしは気づいていた。お互いに無理に言葉を埋めない。


「リアン様は」オーレリア様が言った。「なぜ聖女になりたいんでしょうか?」


 思いがけない質問だった。


 審査の場では誰もそんなことを聞かない。聖女候補として来ているのだから、聖女になりたいのは当然だと思われている。理由を聞かれることはなかった。


「力が欲しいんです」

答えてから、しまったと思った。

「……意外と権力欲が強いのですね」

オーレリア様が少し眉を上げた。珍しい表情だった。

「そ、そうじゃなくて」

慌てて、ポケットの中の恋人石を、思わず手放した。「力があれば、どんな理不尽からも、どんな偏見からも、お姉様を守れる気がして」

「ルネ様を、守る」

「はい」わたしは続けた。「お姉様は闇属性だから、ずっと偏見にさらされてきました。わたしが聖女として認められれば、お姉様の研究が正当に評価されやすくなるかもしれない。お姉様の隣にいることで、お姉様が守られることがあるかもしれない」


 言い終えてから、少し照れた。長く喋りすぎた。


 でもオーレリア様は遮らなかった。最後まで聞いていた。

「そうですか」とだけ言った。

低い声だった。何かを考えているような声だった。

「オーレリア様は」わたしは聞いた。「なぜ聖女になりたいんですか」

「わたしは」オーレリア様が言った。少し間があった。「わからなくて」

「わからない」

「はい」オーレリア様が月を見たまま頷いた。「生まれたときから、聖女になるのが当たり前だと言われてきて。祖母も、母も聖女だったので。だからなぜ聖女になりたいのか問われると——わかりません。なりたいのか、ならなければならないと思っているのか、自分でも区別がつかない」


 月明かりの中で、オーレリア様の横顔がいつもと違って見えた。


 完璧な審査のときの顔でも、神殿関係者に対応するときの顔でも、わたしに礼儀正しく接するときの顔でもなかった。


 ただ、考えている顔だった。答えが出なくて困っている、ふつうの人間の顔だった。

「……ずっと、そう思っていたんですか」とわたしは聞いた。

「ずっと、考えないようにしておりました」オーレリア様が言った。「考えても答えが出ないので。でもリアン様が『守りたい人がいるから』と言うのを聞いて——わたしにはそれがない」


 月が少し雲に入った。中庭が暗くなった。でもすぐに出てきた。

「リアン様」

「はい」

「さっき、お姉様と繋がっている気がするとおっしゃっていましたね」

「そうです」

「その石も」オーレリア様がわたしのポケットを見た。「関係があるんですか」


 ポケットの中の恋人石に、無意識に触れているのに、気づかれていた。


「恋人石です」少し恥ずかしかったけど、答えた。「お姉様からいただきました。お揃いで持っていて」

「……そうですか」


 オーレリア様が月を見た。


「わたしには、そういうものがないですね」静かに言った。「繋がっている、と感じられるような」


 孤独な言い方だった。でもオーレリア様は孤独そうな顔をしていなかった。それが余計に、胸に残った。


「オーレリア様」

「なんですか」

「今夜、一緒に月を見てくれましたよね」

「そうですね」

「だから今夜は、お揃いです」


 オーレリア様が少し止まった。


 わたしを見た。

「……月を見ているということが、ですか」

「そうです。同じ月を見ているから、繋がっている気がします。お姉様と、わたしがそうであるように」


 オーレリア様が黙っていた。


 しばらくして「そうですね」と言った。


 さっきより少し、声が柔らかかった。


「変なことを言いましたか」とわたしは聞いた。

「変ではないです」オーレリア様が答えた。「ただ——そういう考え方をする人に、初めて会った気がして」

「どういう考え方ですか」

「誰かと繋がろうとする考え方、です」


 風が吹いた。木の葉が揺れた。オーレリア様のプラチナブロンドの髪が少し乱れて、すぐに戻った。


「わたしは」オーレリア様がまた月を見た。「今夜初めて、繋がっているという感覚がわかった気がします」

「今夜、ですか」

「はい」


 それ以上は言わなかった。


 二人でしばらく、月を見ていた。


 雲が流れていた。月が見えたり隠れたりした。隠れるたびに中庭が暗くなって、出るたびに白く照らされた。


「そろそろ戻りますね」オーレリア様が立ち上がった。「明日も早いので」

「おやすみなさい、オーレリア様」

「おやすみなさい」


 オーレリア様が歩き始めた。廊下への扉の前で、少し振り返った。


「リアン様」

「はい」

「これからも、よろしくお願いします」

審査の相手として、という言い方ではなかった。ただ「これからも」という言い方だった。

「こちらこそ」


 扉が閉まった。


 一人になった。


 月を見た。


 お姉様も今頃、同じ月を見ているだろうか。研究室の窓から、あるいは中庭の月見石の傍から。

ポケットの恋人石を握った。温かかった。ずっと握っていたから、すっかり自分の体温になっていた。


 今夜、オーレリア様と話した。


 最初は完璧な聖女候補だと思っていた。でも月の下で、「わからないんです」と言った。答えが出なくて困っている顔をした。


 わかったような気がした。


 完璧なのではなく、完璧でいなければならないと思っている人だった。


 それはどれほど、疲れることだろう。


 明日また会う。審査の場で、神殿の場で。


 でも今夜見た横顔を、わたしは覚えていようと思った。


 月明かりの中で「繋がっている感覚がわかった気がする」と言った、あの顔を。

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