第25話 闇の中に灯る月

 マレットとの面会は、翌日の午後だった。


 学院の聴取室は小さな部屋だった。窓が一つ、机が一つ、椅子が二つ。


 マレットが座っていた。


 わたしが入ってくると顔を上げた。いつもの明るい顔ではなかった。でも崩れてもいなかった。なにか覚悟を決めたような、そんな顔だと思った。


 お姉様がわたしの後ろに立った。扉の傍で、壁に背をつけて、腕を組んだ。見守る、という距離感で。


 向かいに座った。


 しばらく二人とも何も言わなかった。

「怒っていますか」とマレットが聞いた。


 考えた。


「怒っているかどうか、まだわからないです」と答えた。「でも聞きたいことがあります」

「なんでも答えます」

「最初から任務だったんですか。わたしに近づいたのは」


マレットが少し間を置いた。


「最初は、そうでした」

「そうですか」

「でも」マレットが続けた。「途中から違ったと思います。本当に、友人だと」

「本当に」

「本当に」マレットが目を伏せた。「だから、一番つらいです。言い訳にしかならないとわかっていて、でも本当のことだから」


 わたしは黙っていた。


 嘘か本当か、確かめる方法はなかった。でもマレットの顔を見ていたら——本当だと思った。思いたかっただけかもしれなかった。


「情報を流し続けたのは」

「家の命令でした。断れなかった。でも断ろうとしなかったのも本当です。ずっと怖かった。家に逆らうことが」

「昨日のことは知っていましたか」

「知りませんでした」マレットが顔を上げた。目が赤かった。「誘拐するなんて聞いていなかった。情報を集めるだけだと言われていた。だから——」

「だから?」

「だから自分を許せない」マレットが言った。「知らなかったとしても、わたしが情報を流したから昨日のことが起きた。リアンが怖い思いをした。それはわたしのせいです」


 部屋が静かになった。


 壁際でお姉様が動かなかった。


 わたしは机の上の自分の手を見た。


 怒りがあるかどうか、まだわからなかった。でも悲しみはあった。手続きで一緒になって、食堂で笑って、お姉様の話をしたら嬉しそうに聞いてくれた、あの時間への悲しみが。感情の底に沈んでいた。


「一つだけ聞かせてください」

「はい」

「友人だと思っていた、というのは本当ですか」

マレットが目を見返した。逸らさなかった。

「本当です」

わたしは頷いた。

「わかりました」

立ち上がった。

マレットが「リアン」と呼んだ。

振り向いた。


「ごめんなさい」


「はい」とわたしは言った。「でも今日はまだ、許せるかどうかわからない」

「はい」

「でも——いつかは、わかりません」


 マレットが頷いた。


 部屋を出た。


 お姉様が後ろからついてきた。廊下に出ると、隣に並んだ。何も言わなかった。でもそばにいた。

しばらく歩いた。


「どうだった」とお姉様が言った。

「すっきりはしていないです。でも聞けてよかった」

「そう」

「お姉様は、どう思いましたか。マレットのことを」

「本当のことを言っていたと思う」お姉様が言った。「全部が嘘ではなかった、というのは」

「そうですね」


 廊下の窓から外が見えた。中庭に月見石があった。昼間でも白く光っていた。

「お姉様」

「なに」

「今回のこと、本当にありがとうございました」

「礼なんていらないわ。あなたがここにいる。それだけで、十分よ」


 それだけ。


 その言葉の重さを、手のひらで測った。


「お姉様」

「なに」

「嬉しいです」

「そう」

「すごく」


 お姉様が少し黙った。「それはよかった」

声が、いつもより柔らかかった。





 夕方、中庭に出た。

 月見石の傍に二人で立った。夕光が石畳を橙に染めていた。空の端に月が出始めていた。まだ薄かった。でも確かにあった。


「今日で落ち着いた気がします」とわたしは言った。

「そう」

「マレットのことも、全部片付いたから」

「よかったわね」お姉様が言った。


 月が少しずつ明るくなっていた。


「お姉様」

「なに」

「一つ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「この先、どうするつもりですか」


 お姉様が少し考えた。「研究を続ける。エドヴァルトとの研究も続ける。それ以外は、まだ決めていない」

「わたしとのことは」

「あなたとのことは」お姉様がわたしを見た。「どうしたいの」


 逆に聞かれた。

 でも聞かれることはわかっていた気がした。


「わたしは」

「うん」

「怖かったんです。もう二度と、お姉様と会えないかもしれないって。だから」わたしは言った。

「お姉様と——」


 思いを、口にした。

 

 誘拐されてからずっと思ってた、それを。


 月が満ちていく。胸に秘めてた感情が、滲み出ていくように。









「お姉様と結婚します」



 

 



 静かになった。


 中庭の風が止まった気がした。


 お姉様がわたしを見ていた。


「……します?」

「します」

「します、というのは」

「したいです、ではなく、します」わたしは真っ直ぐお姉様を見た。「お姉様と一緒にいます。ずっと。それをそう呼ぶかどうかはともかく、わたしの気持ちはそういうことです」


 お姉様が黙っていた。


 長い間だった。


 でもわたしは待てた。お姉様が考えているとき、急かしてはいけない。それは最初からわかっていた。


「……リアン」

「はい」

「結婚、というのは」お姉様がゆっくり言った。「わたしに拒否権はあるの」

「あります」

「あるのね」

「お姉様には拒否する権利があります。でもわたしが先に決めました。だからお姉様に伝えました」

「そう」

「返事を聞かせてください」


 月見石が光り始めていた。満月に近い夜だった。白い光が石畳に落ちていた。


 お姉様が月見石を見た。それから、わたしを見た。


「……好きにしなさい」


 最初に部屋に来たときから、ずっと言われてきた言葉だった。


 でも今日の「好きにしなさい」は違った。


「それは、いいということですか」

「そういうわけじゃ、ないこともないけど」


 わたしは笑った。


 お姉様の手を取った。いつもより強く握った。


 お姉様が少し目を細めた。困っているのか、笑っているのか、どちらにも見える顔だった。

 

 でも手を引かなかった。握り返してきた。


 月が昇っていた。


 月見石が白く光っていた。


 暗い空の中に、月があった。光は自分では輝けない、でも月は暗い空の中でしか見えない。お姉様の魔法みたいだと、ずっと思っていた。


 闇の中で灯る光。


 暗い夜にしか見えない月。


「お姉様」

「なに」

「幸せです」

お姉様が少し間を置いた。

「わたしも」


 小さな声だった。


 聞こえたか聞こえなかったか、というくらいの声だった。


 でも聞こえた。


 月見石の光の中で、二人で立っていた。


 手が繋がっていた。


 それで十分だった。

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