第24話 溢れた感情

 学院に戻ったのは深夜だった。


 教師たちが事後処理を引き受けてくれた。警備の報告、外部への連絡、廃工場に残った人間の身柄確保。わたしたちがやるべきことは終わっていた。


 でも終わった気がしなかった。


 リアンを医務室に連れていった。枷による魔力の圧迫で、少し消耗しているということだった。怪我はなかった。体は問題ない、と医師が言った。


「今夜は医務室で休んでください」


 リアンが頷いた。


 ベッドに腰かけて、膝の上に手を置いていた。今夜ずっと泣く手前だった目が、今は乾いていた。泣き終えたのか、泣けなくなったのか、どちらかわからなかった。


「一人にしてもいい?」と医師が言った。「お姉様がいた方がいいなら——」


「います」とわたしは言った。


「何かあったら、このベルを鳴らしてください」そう言って、医師が出ていった。

 

 扉が閉まった。


 医務室に二人になった。薬草の匂いがした。窓から月が見えた。


「お姉様」

「なに」

「マレット、今どこにいますか」

「学院の事情聴取室だと思う。教師方が対応している」

「そうですか」リアンが膝の上の手を見た。「会えますか、マレットに」

「明日以降なら。今夜は難しいでしょうね」

「そうですか」

繰り返した。同じ言葉を、確認するように。


「リアン」

「はい」

「マレットを恨んでいる?」

リアンがしばらく黙った。

「わからないです」ゆっくり言った。「怒っているかどうかも、まだわからない。整理できてない。ただ——」

「ただ」

「友人だと思っていたから」リアンが顔を上げた。「友人だと思っていた人間が、最初からそうじゃなかったかもしれないって、それが」

「それが」

「どこからが本当で、どこからが嘘だったのか、わからなくて」


 言葉が見つからなかった。


 慰める言葉を探した。でも出てこなかった。マレットが最初から嘘だったのか、途中から本物が混じっていたのか、今夜わかったことではなかった。


「マレットに聞きなさい」とわたしは言った。「明日、直接」

「怖いです」

「怖くても聞いた方がいい。答えによって、あなたが何を思うか、違うはずだから」


 リアンが頷いた。


「お姉様は」リアンがわたしを見た。「今夜、

怖かったですか」


 怖かったか。


 廃工場に向かうとき、感知を広げてリアンの魔力を探したとき、扉を開けてリアンが隅にいるのを見たとき——怖いという感情がどこにあったか、わたしは考えた。


「感知でリアンの魔力を見つけたとき」とわたしは言った。「弱かった。それが怖かった」

リアンの目が少し揺れた。

「でも消えていなかった。それで動けた」

「……お姉様」

「なに」

「ごめんなさい」

「謝らなくていい」

「でも心配させた」

「させた、とは言っていない」

「顔に出ていますよ」リアンが小さく笑った。笑い方に力がなかったが、笑った。「お姉様は顔に出ない人だけど、今夜は出てます」


 出ているのか。

 自分ではわからなかった。


「お姉様も疲れていると思うから、休んでください」リアンが言った。「ここには一人でいられます」

「いる」

「え」

「今夜はここにいる。邪魔なら別の話だけど」

リアンが少し間を置いた。「邪魔じゃないです」


 医務室の椅子を引いた。ベッドの傍に置いて、座った。

リアンが横になった。毛布を引き上げた。


「おやすみなさい、お姉様」

「おやすみ」


 目を閉じたリアンを見ていた。


 しばらくして、呼吸が深くなった。眠ったのだろう。疲れていたはずだった。


 部屋が静かになった。


 月が窓から差し込んでいた。


 わたしは椅子の上で、ポケットの恋人石を取り出した。光の角度によって青に見える石だった。リアンも同じ石を持っている。


 今夜、感知でリアンの魔力を探したとき、あの石の温度を思い出していた。意識していなかったが、思い出していた。温かさの記憶を手がかりに、魔力を探していた。


 リアンの寝顔を見た。


 怪我がなかった。無事だった。それは本当だった。


 でも今夜、リアンは友人を失った可能性がある。わたしは亀裂を抱えたまま動いていた。答えられなかった問いがまだ残っていた。


 石を握った。


 手の中で温かくなった。石の温度ではなかった。自分の体温だった。でも今夜はそれでよかった。


 リアンの呼吸が聞こえた。


 規則正しかった。穏やかだった。


 それを聞きながら、今夜初めて息を吐いた。


 肩から何かが抜けた。緊張が、ではなかった。もっと深いところにあった何かが。


 目の奥が、少し熱くなった。


 おかしい、と思った。泣く理由がなかった。リアンは無事だった。全員、怪我がなかった。

 

 終わった。


 でも熱かった。


 今夜ずっと、感情を動かさないようにしていた。感知を広げるために、判断を速くするために、動き続けるために。感情は後でいいと思っていた。後回しにしていた。


 後回しにしていたものが、今、戻ってきていた。


 弱かった、とわたしは思った。感知でリアンの魔力を見つけたとき、弱かった。届くか届かないかくらいの、薄い光属性の気配だった。

あれが消えていたら。


 考えなかった。考えようとしなかった。でも今夜、医務室でリアンの寝顔を見ているうちに、考えてしまった。


 目を閉じた。


 熱さが目尻まで来た。


 落ちなかった。落とさなかった。落としてはいけないと思った。


 でも近くまで来ていた。薄皮一枚のところまで、来ていた。


 リアンの呼吸が聞こえ続けた。


 それを聞いていたら、少しずつ落ち着いた。ここにいる。呼吸している。温かい。


 石を握ったまま、椅子の上で夜が明けるのを待った。


 朝になった。


 リアンが目を開けた。そして、わたしを見た。


「……いてくれたんですか」

「いると言った」

「そうでしたね」リアンが起き上がった。寝癖がついていた。「お姉様、眠れましたか」

「少し」

「少し、ですか」リアンが心配そうな顔をした。


 わたしは頷いた。


 二人で医務室を出た。


 廊下に朝の光が入っていた。リアンが隣を歩いていた。いつもより少しだけゆっくり歩いていた。


「お姉様」

「なに」

「昨夜、ずっといてくれてありがとうございました」

「当然のことをしただけよ」

「当然、ですか」リアンが少し笑った。「それ、前にも言っていましたね」

「言った?」

「前に、わたしを守ってくれたとき。あなたがそこにいたから、って」


 覚えていた。この子はいつも、わたしの言葉を覚えている。


「今夜も、同じ理由よ」


 リアンが歩きながら、わたしの手に触れた。

繋がなかった。ただ、指先が触れた。それだけだった。


 でもそれだけで十分だった。


 閑静な学院の廊下を、二人きりで歩いた。


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