第14話 ある雨の日
その日は、朝から雨が降っていた。
いつも通りの図書館。私とリアンは、向かい合わせに座ってそれぞれ本を読んでいた。
地下だから雨音は届かない。でも空気が違った。湿っていて、少し重い。照明の暗紫色が、今日はいつもより橙に近く見えた。
「お姉様」
リアンが私を呼ぶ。
「なに」
「実験、したいです」
「実験?」
「魔力干渉実験です」
「ああ」
魔力干渉実験。またしてもいいかと、あの時リアンは言っていた。構わない、と答えていた。でもそれから互いに言い出さないまま、しばらく経っていた。
「いいわよ」
「いいんですか?」
断る理由はなかった。あの実験は、いずれ論文にして発表できるくらいには有用だったし、
なにより——
いや、考えないことにした。
「エドヴァルトを呼ぶ?」
「今日は、二人だけでいいです」
二人だけ。
その言葉を頭の中に置いた。研究として記録を取る必要があった。でも今日はいい、とリアンは言った。記録より、実験そのものが目的だということだった。
わたしも、今日はそれでいいと思った。
本を閉じた。リアンも閉じた。
立ち上がって、書架の少ない場所に移動した。地下の中央あたり、照明が一番安定している場所だった。向かい合って立った。
距離を確認した。
一メートルほど。前回よりずっと近いところから始めることを、どちらも言葉にしなかった。
「手順は覚えてる?」とわたしは聞いた。
「覚えています」
「わたしが先に干渉域を展開するから、リアンはその境界に光魔力を——」
「知っています」リアンが静かに遮った。
そうだった。
この二人にとって、今更手順を確認するようなものではなかった。
右手を上げた。
魔力を引き出した。内側へ。暗い霧が指先から滲んで、体の周囲に干渉域が広がっていく。薄く、でも密に。前回より密度を上げた。
リアンの左手が上がった。
光魔力が境界に触れた。
温かかった。
いつもそうだった。リアンの光魔力が触れるたびに、闇の中に温かさが入ってくる。慣れるかと思っていたが、慣れなかった。毎回、少し驚く。
リアンが一歩近づいた。
光魔力が干渉域の深いところまで入ってきた。循環し始めた。光と闇が混ざって、でも消えない。どちらも消えないまま、一緒にある。
もう一歩。
吐息が届く距離になった。
見上げてくる目があった。落ち着いた目だった。でもその奥に、落ち着いていない何かがあった。いつもそこにある何かが、今日は少し表に出ていた。
雨の日のせいかもしれない、と思った。
雨の日、リアンは少し違う顔をする。幼いころからそうだった。外に出られない日、わたしの部屋に来て、並んで本を読んだ。あの日の空気と、今日の空気が似ていた。
「お姉様」
リアンが小さく言った。
「なに」
「今日は」リアンが少し間を置いた。「深くしてもいいですか」
深く。
前回より深い干渉。魔力をより混ぜる、ということだった。研究として言えば、共鳴の深度を測る、ということになる。
でも今日はエドヴァルトがいない。記録もない。
「……いいわよ」
リアンがもう一歩近づいた。
距離がなくなった。干渉域の内側に、リアンがいた。光魔力が闇魔力と深いところで混ざり合っていた。体の外側の話だったはずのものが、どこまでが外でどこからが内かわからなくなっていた。
リアンの唇が、誘うように薄く開いた。
わたしは眠るように目を閉じた。
リアンの唇が、わたしの唇に触れた。
柔らかかった。
熱い吐息を感じた。リアンの吐息だった。少し震えていた。緊張しているのか、それとも別の何かなのか、唇越しに伝わってきた。
どちらからも動かなかった。
ただ、触れていた。
光魔力がわたしの闇魔力の深いところに入ってきた。触れているのが唇なのか魔力なのか、区別がつかなくなった。温かかった。暗くなかった。寒くなかった。
前回より長かった。
どちらも動かなかった。干渉域の中で光と闇が混ざり続けていた。
離れたのは、同時だった。
目を開けた。
リアンがいた。頬が赤かった。でも今日は逃げなかった。いつもより真っ直ぐな目でわたしを見ていた。
「……深度、上がりましたね」とリアンが言った。
「そうね」
「記録しますか」
「今日はいいわ」
リアンが少し笑った。
干渉域を解いた。光魔力がゆっくりと引いていった。でも今日は名残が長かった。なかなか消えなかった。
消えてから、二人で元の席に戻った。本を開いた。
しばらく読んでいなかった。
雨は降り続いていた。地下には届かない音が、でも今日は聞こえる気がした。
「お姉様」
「なに」
「また、今度しましょう」
答えなかった。
その代わりに、無言で本のページを繰った。
それで十分だった。
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