第8話 感情の正体
リアンが図書館に来るようになって、二週間が経った。
最初の日、地下の階段を下りてくる足音を聞いて、わたしは誰だろうと思った。この時間帯に地下まで来る生徒は少ない。顔を上げたら妹だった。
実家にいた頃、しっかりと覚えていた、決して聞き逃すことのなかった妹の足音を、すっかり忘れてしまっている事実に、時の経過を実感した。
「来ました」とリアンは言って、向かいの椅子を引いた。断る理由がなかったから黙っていた。それで定着した。
今日も同じだった。夕方になると足音が聞こえて、リアンが座る。それぞれ本を開く。会話はほとんどない。リアンはわたしの邪魔をしない。静かにしていられる子だと、家にいたころから思っていた。
「……何を調べているんですか、いつも」
「闇属性の干渉範囲と魔力減衰の関係」
「難しい」
「あなたには早い」
「いつかわかるようになりますか」
わたしは少しだけリアンを見た。
なるわよ、と言おうとして、少し言い方を変えた。「勉強すれば」
ゲームでは、リアンはとても頭が良い設定だった。闇属性魔法だって、本気で勉強すれば、私を軽々超えていくだろう。聖女候補のリアンにそれをやる必要があるかは置いておいて。
それだけ言って、文献に戻った。ページの端に書き込みを続ける。でもさっきより集中が散漫になっているのに気づいていた。向かいにリアンがいるだけで、こんなにも気が散る。
気が散る、というのはなんか違う気がした。
ただ、いる、ということを強く意識する。リアンが本のページを繰る音。息をする気配。たまに口の中で文字を読む癖があって、唇がかすかに動く。一挙手一投足に、思わず目がいってしまう。それは、前世の私がリアン推しであったからか、今の私がリアンを意識しているからか、わからなかった。
前世でゲームをしていたころに知っていたリアンは、画面の向こうにいた。体温があるとは、思っていなかった。今、こうしていると、リアンの体温を、呼吸を、よく感じる。
階段から足音がした。
靴底の音が重い。男子生徒だと思った。書架の間を迷わず歩いてくる。この地下の構造を知っている人間だ。
顔を上げて、誰か確認した。
金髪で背の高い男子生徒だった。そして、私はその生徒の名前を前世から、よく知っていた。
エドヴァルト・ライン。三年生。生徒会長。光属性で、魔力量が学院でも最上位。ゲームの攻略対象の一人だ。ゲーム内でトップレベルに人気がある。公爵家であるライン家の長男という家柄で、まるで光の束を集めたような眩い金髪に、澄んだ空のような碧眼。王子様風の出立ち。その派手な見た目に反して、誰よりも勉強熱心で、紳士的な人物。
でも彼はリアンではなく私の方を見ていた。その長いまつ毛と澄んだ瞳で、私の方をまっすぐに見据えていた。
「ルネ・ド・クロワール?」
「そうだけど。ライン家のご長男が私に何のようかしら」
エルヴァルドは、先週の実技授業のことを言った。
「干渉魔法の術式構築について聞きたい」
「干渉魔法……」
「君が研究していると聞いた」
エルヴァルドは言った。わたしは少し考えた。エルヴァルドの意図を、慎重に図る。
悪意ではない。そう思った。ゲームでのエドヴァルトはそういう人物ではなかったし、ただ純粋に、魔法として面白いと思っている目だった。それはわかる。わかるから余計に少し困った。
人気者で生徒会長のエルヴァルドと関わると、いらぬ妬み嫉みを買う気がした。ゲームでも、エルヴァルドと仲良くなったリアンは、厄介ごとに巻き込まれた。
「闇魔法は誰に習った?」エドヴァルトが問う。
「独学よ」と答えた。
「なんと。独学で闇属性魔法理論を極めるとは」
話を続けるうちに、エドヴァルトの興味が本物だということがわかってきた。闇属性の研究に触れたことがある人間の質問をした。ただの好奇心ではなく、理解しようとしている。
そういう人間は珍しい、とは思った。特に光魔法の使い手では。闇魔法の使い手は基本的に忌避される傾向にあるが、特に光属性の使い手はそれが顕著だと思っていた。
「一度、詳しく話を聞かせてもらえないか。放課後、時間があれば」
断る理由を探した。見つからなかった。私は読んでいた本のページをなんとなくなぞる。ツルツルとした感触が指に伝わる。
「……考えておく」
エドヴァルトが立ち上がって、リアンを見た。
リアンが微笑んで、自己紹介した。「リアン・ド・クロワールですわ」
そのあとエドヴァルトが「姉妹で属性が真逆というのは珍しい」と言って、リアンが「真逆じゃないと思います」と言った。
わたしは顔を上げた。
リアンが言葉を続けた。
「お姉様の魔法を見ていると怖くない、光の中にいるときと同じ感じがします」
図書館が静かになった。
「光の中にいる感触」
エドヴァルトがリアンを見て、それからわたしを見た。何かを測るような目だった。
わたしは文献に視線を戻した。顔に出さないようにした。
エドヴァルトが帰って、二人になった。
わたしは文献を開いたまま、一行も読めなかった。
リアンの言葉が頭の中で繰り返されていた。光の中にいるときと、同じ感じ。
それがどういう意味か、理解したくて——同時に、理解したら何かが変わる気がしていた。
「お姉様」
「なに」
「あの人、また来ますよ」
「わかってる」
「……迷惑ですか」
迷惑かどうか、と考えた。エドヴァルトは悪い人間ではないと思う。魔法の研究に真摯な人間だと思う。でも——
「そうでもない」
それ以上言えなかった。
本当のことを言えば、どちらでもよかった。エドヴァルトが来ようと来まいと、わたしの関心はそこにない。
わたしの関心は、向かいに座っているリアンが、また明日も来るかどうかの方にある。
そういうことを言えるわけがないから、黙っていた。
「リアン」
「はい」
「さっき言ったこと」文献を見たまま言った。「光の中にいるのと同じ、というのは」
リアンが少し考えた。「ただそう感じるというか……お姉様の闇魔法は、冷たくないというか」
「冷たくない」
「明るくないのに、冷たくない。なんか変な言い方ですけど」
変じゃない、とわたしは思った。
夜の庭でわたしの魔法を見て、怖くないときれいだと言った子だ。
「変な言い方じゃないわ」
声が思ったより小さくなった。リアンが聞こえたかどうか、確認しなかった。
窓の外が暗くなり始めていた。図書館の照明が、文献の上に静かに落ちていた。
ページを繰る音が、また始まった。
わたしはその音を聞きながら、干渉魔法の計算式を書き続けた。
集中できていなかった。できていなかったけれど、それでもよかった。
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