第40話 泡の後の静寂と、新たな『雇用契約』
聖域守護艦隊が「超高圧・界面活性・粘着液」によってピンク色の泡の塊と化し、海面を漂流し始めてから半日が経った。俺が放った霧雨(追いシャワー)によって、艦隊の鎧も甲板も、驚くほどピカピカに磨き上げられていた。
「……陛下。敵艦隊、全艦が戦意を喪失。というより、甲板が滑りすぎて誰も立ち上がれず、全員が四つん這いで白旗を振っております」
バルガスが、遠眼鏡を覗きながら腹を抱えて報告してきた。
「……だろうな。テトラが配合したあの粘着液は、一度乾燥すると強力なワックス効果を発揮する。……重力魔法でも使わない限り、あのツルツルの上で踏ん張るのは不可能だ」
俺は執務室で、ようやく冷めた茶を飲み干した。
1
一時間後、捕虜(という名の清掃対象者)となったカスティール司教が、両脇をガッシリとオークの衛兵に抱えられて引きずられてきた。足元が覚束ないのか、絨毯の上ですらスケート選手のように足が流れている。
「……おのれ魔王……。神聖なる艦隊を……、洗濯物のように扱いおって……。これは末代までの恥辱……!」
「……恥辱? 鏡を見てみろ、司教。お前の法衣、買った時より白くなってるぞ。……汚れを落とすのが悪だというなら、お前たちの神殿に溜まった『中抜き予算』の埃も一緒に洗い流してやろうか?」
俺が書類を差し出すと、司教は震える手でそれを受け取った。
2
「……これは、何だ? 降伏勧告書か?」
「いいえ。……『公共空間の不法汚染に対する、強制労働による弁済契約書』よ」
背後から、計算機をパチパチと鳴らしながらテトラが現れた。その横には、学者のエドワードも意地悪そうな笑みを浮かべて控えている。
「……あんたたちが放った魔導砲の不発弾の処理費用。……それから、泡を流すために使った水源の水道代。……合わせて金貨五万枚。……払えないなら、その艦隊の乗組員全員、うちの『第5区画・海底清掃部門』で三年間働いてもらうわ」
「な、何だと!? 神の騎士たちを……ドブさらいに使うというのか!」
「……ドブじゃない、環境保全だ。……司教、お前のところの騎士たちは、戦うこと以外に何もできないのか? ……この島じゃ、働かない奴に食わせる飯はないんだよ」
俺の冷ややかな一言に、司教は絶望したように項垂れた。
3
『あはは! 騎士団が「環境美化部隊」に転職!? 魔王様、あなたの「人材活用術」は、天界のどの神話よりも実利に溢れてるわね!』
空からノルンの鈴が鳴るような笑い声が降ってくる。彼女たちは、かつて自分たちの駒だった騎士たちが、泥だらけになって排水溝を磨く姿を想像して、早くも「聖なる労働者たちの肖像」という新しい絵画のインスピレーションを得ているようだった。
『ねえアストレア、見てよ。あの騎士たちの鎧、汚れが落ちてキラキラ輝いてるわ。……これこそが本当の「神聖」ってやつじゃない?』
(……だめがみ。……皮肉はやめろ。こっちは、あいつらの福利厚生の書類を作るだけで、また徹夜確定なんだからな)
4
結局、司教は泣く泣く契約書にサインした。
翌朝から、白銀の鎧を纏った騎士たちが、腰にバケツとブラシをぶら下げて、島中の水路を磨き上げるという、シュール極まりない光景が日常に加わった。
「……陛下。見てください。……元勇者、元聖女、元賢者、そして現役の王女に、今回加わった聖騎士団。……この島、世界で一番『高学歴・高スペックな作業員』が集まる場所になってしまいましたな」
「……笑えない冗談だ。……俺が欲しかったのは、静かな隠居生活だったはずなんだがな」
俺は、窓の外で騎士たちを指導するアルスの怒鳴り声を聞きながら、深くため息をついた。
魔王領は、もはや国という枠を超え、世界中の「役割を失った者たち」を飲み込む、巨大な生活の渦へと進化していた。
「……だめがみ。……次、誰かを送ってくるなら……せめて、人事労務のプロを一人、派遣してくれよ」
俺の切実な願いを乗せて、魔王領の新しい一日は、石鹸の香りと共に騒がしく幕を開けた。
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