第30話 終わらない日常への宣戦布告
刺客たちが「トイレ掃除」という名の現実的な贖罪に連行されてから数日。魔王領は、かつてないほど穏やかな朝を迎えていた。リリナの学校からは子供たちの笑い声が響き、アルスは水路の仕上げに汗を流し、財務局ではテトラとエドワードが理想的な税率についての議論を終えたところだ。
俺は執務室のテラスで、淹れたての苦い茶を啜った。女神の祝福を断り、勇者たちを受け入れ、人間領の執着を退けた。これでようやく、俺が求めていた「誰にも邪魔されない、地味な隠居生活」が手に入るはずだった。
「陛下、本当にお疲れ様でございました。この島は今、世界で最も『神の手を離れた場所』となりました。もはや、女神たちの介入する余地などございませんな」
バルガスの明るい声を聞きながら、俺は満足げに目を閉じた。
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だが、その瞬間。空がこれまでに見たこともないほど、不自然に真っ白に染まった。雷鳴はない。風もない。ただ、絶対的な「断絶」の予感が、俺の背筋を凍らせた。
『……ふふ。おめでとう、魔王。あなたは本当に、やってのけたわね』
アストレアの声が、空からではなく脳内に直接響く。そのトーンはいつもの観察者のそれではなく、一つの役割を終えた事務官のような、淡々としたものだった。
『あなたたちは自立し、神を必要としなくなった。それは私たちにとっても、一つの「卒業」を意味するわ。だから、決めたの。本日をもって、私たちはこの世界の「観測」を終了します』
俺は嫌な予感がして、茶碗を置いて空を見上げた。
『そして、この島を「聖域」として隔離し、永遠の静寂を与えることにしたわ。もう何も起きない。誰も攻めてこないし、誰も飢えない。あなたが望んだ「究極の休日」が、永遠に続く場所にしてあげる。嬉しいでしょ?』
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「……隔離? 永遠の静寂だと?」
俺は思わず叫んだ。隔離されるということは、外部との交易も、新しい情報の流入も、すべてが止まるということだ。それは「平和」ではなく、ただの「停滞」に過ぎない。
「ふざけるな! 俺が欲しいのは、動いている世界の中での休息だ! 止まった箱庭に閉じ込められることじゃない!」
俺の抗議も虚しく、島の周囲に天界の強力な結界が張り巡らされていくのが見えた。ノルンの声が、隠しきれない寂しさと少しばかりの意地悪を混ぜて響く。
『えー、だって、もういじりようがないほど完成しちゃったんだもの。これ以上は蛇足よ。大人しく、永遠の微睡みに浸っていればいいじゃない』
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その時、横からひょいと手が伸びて、俺の肩を叩いた。
「……陛下。あいつら、また勝手なこと言ってるのか?」
アルスだ。泥だらけの服を着た元勇者が、不敵な笑みを浮かべて空を睨んでいた。その後ろには、リリナ、テトラ、エドワード、そして多くの魔族たちが集まっている。
「いいか、女神たち! 俺たちは、あんたたちの『お気に入り』を卒業したんだ。なら、どこでどう生きるかも、俺たちが決める! 隔離されるくらいなら、俺たちはその壁をぶち破って、神のいない荒野へでも漕ぎ出してやるよ!」
アルスの叫びに、リリナが静かに頷き、テトラが数式を書きなぐった。
「……隔離結界の構造、解析終了。陛下、これ、事務的に『不当な監禁』として告訴できますよ。物理的に、ですけど」
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「だめがみども、聞いたか」
俺は空を指差し、最高に不機ayedな顔をして言い放った。
「あんたたちが退屈して去るなら、勝手にしろ。だが、勝手に出入り口に鍵をかけていくな。俺は、自分の足でこの島を出て、自分の足で布団に入りたいんだ。永遠の休日なんて、死んでからで十分だ!」
一瞬、空が震えた。女神たちの驚きと、それから心底楽しそうな笑い声が響いた気がした。
『……あはは! やっぱり、こうじゃなきゃ! わかったわ、魔王。卒業は、もう少し先にするわね。でも、次はもっと「面倒な事件」がそっちへ行くように、運命の糸をこんがらせておいたから!』
光が収まり、空は元の青さに戻った。結界は消え、いつも通りの、騒がしくて少しばかり理不尽な魔王領の日常が戻ってきた。
「……はぁ。結局、休めないのか」
「陛下。次の『不法侵入者』の気配、もう来てますよ」
テトラが指差した先。水平線の向こうに、新たな利権を求めて大挙して押し寄せてくる商船団が見えた。俺は盛大な溜息をつき、茶の残りを一気に飲み干した。
「バルガス、全職員に伝えろ。持ち場につけ。俺たちの『現実』を、守り抜くぞ!」
俺の隠居計画は、どうやら永遠に更新され続ける運命らしい。
「だめがみ……。これ、絶対にわざとだろ!」
俺の叫び声は、活気付く港の喧騒の中へと、小気味よく溶けていった。
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