第29話 夜の学校と、折れない心
魔王領の夜は、静かだ。
だが、その静寂を切り裂くように、三つの影が保健衛生学校の敷地内へと滑り込んだ。
彼らが手にしているのは、聖なる油を染み込ませた松明。神の火で「汚れ」を焼き払うという、聖教国過激派の独善的な儀式だ。
「……愚かな。魔物と手を取り合うなど、神への最大の背信だ。リリナ、貴様の魂を炎で浄化してやろう」
リーダー格の男が松明を掲げ、校舎の木製ドアに手をかけた。
だが、その瞬間。
カチッ、という無機質な音が響き、頭上から大量の「白い粉」が降り注いだ。
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「……なっ、これは!? 聖なる灰か!?」
「いいえ。ただの『消火用の乾燥砂』ですよ」
暗闇から、冷ややかな声が響いた。
松明の火は砂に埋もれて一瞬で消え、刺客たちは視界を奪われて激しく咳き込んだ。
そこに立っていたのは、腕組みをした俺と、抜き身のツルハシを肩に担いだアルスだ。
「……夜間の校舎侵入は、管理規則第14条違反だ。不法侵入、および放火未遂。……事務的に処理するには、少しばかり『罪』が重すぎるな」
「ま、魔王……! それに勇者アルス! 貴様、やはり魔王の術中に……!」
刺客たちが剣を抜こうとしたが、アルスの動きの方が速かった。
加護を失ったはずの彼の踏み込みは、しかし、地面を正確に捉え、重戦車のような圧力で刺客の一人を壁に叩きつけた。
「……術中? 笑わせるな。俺は今、この学校の『夜間警備員』としてここに立っている。……子供たちが明日使う教室を汚す奴は、神だろうが人間だろうが、俺が叩き出す」
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『あはは! 見てアストレア! アルス君、警備員の制服が意外と似合ってるわよ!』
空からノルンの茶化すような声が聞こえるが、現場の緊張感は消えない。
刺客のリーダーが、狂気に満ちた目でリリナを探して叫んだ。
「リリナ! どこにいる! 出てこい、裏切り者め! 神の奇跡を捨て、泥を弄ぶその手を、我らが裁いてやる!」
その時、校舎の奥から、リリナが静かに姿を現した。
彼女の手にあったのは、聖典ではなく、一枚の「雑巾」とバケツだった。
「……裁く、ですか。私はもう、誰かを裁くための高い場所にはいません」
リリナは、砂を被って床を汚した刺客たちの足元を見つめ、静かに言い放った。
「私がここで学んだのは、汚れは祈りでは落ちないということ。そして、一度汚した場所を綺麗にするには、どれほどの努力が必要かということです。……あなたたちが今汚したこの廊下、明日、子供たちが掃除するんですよ。……恥ずかしくないのですか?」
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「……何を、何を言っている! 汚れとは罪のことだ! 物理的な掃除など……!」
「いいえ。物理的な汚れこそが、病を呼び、心を荒ませるのです。……あなたたちの心に溜まったその『正義』という名の煤(すす)も、一度石鹸で洗ってみてはいかがですか?」
リリナの真っ直ぐな瞳に、刺客は気圧されたように言葉を失った。
彼女から発せられているのは、かつての聖なるオーラではない。
毎日泥にまみれ、石鹸の泡を立て、現実と向き合ってきた者だけが持つ「生活の重み」だ。
「……話は終わりだ。アルス、連れて行け。……こいつらには、刑罰として一ヶ月間、魔王領全域の『公衆トイレ掃除』を命じる。……神の奇跡に頼らず、素手で汚れと向き合ってもらおう」
「……了解だ、陛下。こいつら、根性が腐ってるから、磨き甲斐がありそうだな」
アルスが刺客たちを芋虫のように縛り上げ、引きずっていく。
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嵐が去った後の校舎で、リリナは深く溜息をつき、手に持っていた雑巾を絞った。
「……陛下。私、少しは『教師』らしくなれたでしょうか」
「ああ。……少なくとも、あの刺客どものどんな説教よりも、お前の雑巾の方が説得力があったぞ」
俺は空を見上げた。
ノルンが少し残念そうに「もっと派手な魔法バトルが見たかったのに」と零していたが、アストレアは黙ってリリナの姿を見守っていた。
「……だめがみ。……正義なんて大層なもんはいらないんだよ。……俺たちは、明日を気持ちよく迎えるために、今日を掃除する。……それだけで十分だ」
俺の呟きに、夜風が優しく応えた。
人間たちの悪意すらも「清掃業務」という日常に飲み込んでしまった魔王領。
だが、この平和な結末が、天界の女神たちに「ある決断」をさせることになるとは、今の俺には想像もつかなかった。
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