第28話 聖女の学校と、神殿の影

 魔王領の午前十時。かつては咆哮と土煙が舞っていた広場には今、子供たちの合唱と石鹸の香りが漂っていた。

 元聖女リリナが発案し、俺が渋々予算をつけた『保健衛生学校』。そこでは魔族の子供も人間の難民も分け隔てなく、泥遊びの後の手洗いと、簡単な消毒の方法を学んでいる。


「はい、皆さん。指の間もしっかり洗ってくださいね。バイキンさんは、光の魔法じゃなくて、この泡さんが連れて行ってくれるんですよ」


 リリナが微笑むと、オークの子供たちが「はーい!」と元気よく返事をする。

 奇跡を使わない聖女。だが、その背中には、かつて神殿で後光を背負っていた頃よりも、ずっと確かな信頼が宿っていた。


 俺は木陰からその様子を眺め、手元の帳簿にチェックを入れる。


「……よし。石鹸の消費量は増えたが、感染症による労働力損失は激減した。差し引きプラスだな」


「陛下、またそんな味気ない計算を……。リリナ殿の慈愛が実を結んでいるというのに」


 隣でバルガスが呆れたように溜息をつく。

 だが、その「慈愛」を、呪いと断じる者たちがいた。


 1

 港の喧騒から離れた裏路地。

 魔王領への入国審査を巧妙に潜り抜けた、三人の「巡礼者」がいた。

 彼らが纏うボロボロのローブの下には、聖教国の過激派組織『純血審問会』の刺客であることを示す、逆さ十字の刻印が隠されている。


「……見ろ。かつての聖女が、魔物共に手を取って笑っている。……おぞましい」


 リーダー格の男が、歯の隙間から呪詛を吐き出した。

 彼らにとって、リリナは「神に見捨てられた哀れな女」でなければならなかった。魔王の元で幸せそうに暮らす彼女の存在は、神の絶対性を揺るがす「生きた不都合」なのだ。


「……処刑だな。魔王に洗脳された哀れな魂を、我らが浄化してやらねばならん」


「異議なし。……今夜、あの『学校』を神の火で焼き払おう」


 彼らの瞳には、女神たちのそれとは異なる、ドロドロとした人間特有の「正義」が宿っていた。


 2

『……あらぁ。なんだか、嫌な空気。ねえアストレア、あの人間たち、とっても「不浄」なことを考えてるわよ?』


 空の上。ノルンの声が、いつになく不快そうに響いた。

 彼女たち女神は、気まぐれで残酷な試練を課すが、そこに陰湿な殺意や憎悪は含まれない。それはあくまで「観測」のための娯楽だからだ。


 だが、人間が放つ「執着」の闇は、女神たちの計算をも狂わせるノイズとなる。


『……ええ。彼らは「神」の名を騙り、自分の心の穴を埋めようとしている。……魔王はどう動くかしらね。自分の作った小さな「学校」が、かつての同胞に狙われていると知ったら』


(……知ってるよ。筒抜けだ。どものおしゃべりが、全部ヒントになってるんだからな)


 俺は、茂みの中に隠していた「魔力探知機(テトラとエドワードの共同試作品)」の針が、異常な数値を指しているのを確認した。


 3

「バルガス。今夜は『避難訓練』を実施する」


「えっ? 定例のやつですか?」


「いや。本番に近い、抜き打ちのやつだ。……リリナと子供たちを城の地下へ。……それからアルスに伝えろ。……『かつての身内の後始末、手伝ってくれるか』とな」


 俺は、学校の窓から手を振るリリナに、小さく手を振り返した。

 彼女の石鹸が守ろうとしているのは、清潔な手だけじゃない。

 この島でようやく芽生えた、「神の奇跡に頼らない、小さな誇り」だ。


 それを、勝手な正義感で燃やさせてたまるか。


「……。……見てるなら、今夜は照明(月明かり)を少しだけ落としておいてくれ。……掃除の時間だ」


 俺の冷ややかな呟きに、雲がわずかに動き、月を隠した。

 女神たちは、期待を込めてその「夜」を待ち構えていた。

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