第26話 招かれざる知の探究者
「清潔の聖域」と化した魔王領の空気は、数日が経過してもなお、クリスタルのように澄み渡っていた。
俺がどれだけ「これはただの大掃除の結果だ」と言い張っても、魔族たちは毎朝、港に輝く朝日を拝み、リリナが泡立てた石鹸の残りを「聖なる泥」として大事に持ち帰っている。
そんな「神話化」に拍車がかかる島に、新たな、そして非常に厄介な訪問者が現れた。
「陛下。……今度は軍艦ではありません。人間領から、一隻の小さな商船が。乗っているのは自称『歴史学者』を名乗る老人です」
バルガスの報告に、俺は嫌な予感がして額を押さえた。
勇者の奪還でも、資源の強請りでもない。そんな実利のない目的でこの島に来る人間は、十中八九、俺の最も苦手な「好奇心の塊」だ。
1
港の検問所に向かうと、そこには埃っぽいローブを纏い、分厚い眼鏡をかけた老人がいた。
彼は俺の姿を見るなり、膝をつくどころか這いつくばるようにして叫んだ。
「おお……! 貴方様が、あの『合理の魔王』様ですか! 聖教国の艦隊を鉄の棒一本で退け、泥を金に変えるという伝説の……!」
「……泥を金には変えてない。ただの土木工事だ」
「それです! その『ただの』という言葉の裏にある、深遠なる自然科学の叡理! 私は人間領の腐敗した神学に絶望し、真理を求めてこの島へ参りました! 私の名はエドワード。どうか、末席に置いていただきたい!」
エドワード。人間領の最高学府を「神の奇跡に頼る学問は死んだ」と言い放って追放された、筋金入りの変人学者だった。
2
『あはは! 面白いじゃない。魔王様、ついに「ファン」ができちゃったわね!』
空からノルンの楽しげな声が降ってくる。
彼女はこの老学者の登場を、物語に新しいスパイスを加える絶好の機会だと捉えているらしい。
『アストレア、見てよ。あの学者の情熱! 彼に少しだけ「真理の断片」を見せてあげたら、もっと面白くなると思わない?』
(……よせ、ノルン。これ以上、この島の情報を人間領に流されてたまるか)
俺はエドワードを追い返そうとしたが、彼は俺の足元に転がっていた「改良型スコップ(テコの原理を応用したもの)」を見るなり、発狂したようにスケッチを始めた。
「素晴らしい……! 持ち手の角度、重心の分散、これぞ神の計算を超えた人間の知恵! ああ、書き留めねば……!」
3
俺はため息をつき、バルガスに指示を出した。
「……バルガス。こいつをテトラのところへ連れて行け」
「財務局の、あの元賢者殿のところへですか?」
「ああ。数字と理屈にうるさい者同士、気が合うだろ。……ついでに、あの山積みの未整理資料を全部こいつに分析させろ。学者の情熱を、事務作業という名の現実で冷ましてやるんだ」
「ははっ。……陛下。知を求める者に、最も過酷な『実務』を与える……。なんと冷徹にして効率的な人事でしょうか」
エドワードは「賢者テトラ様と議論ができるとは!」と涙を流して喜んでいたが、彼はまだ知らない。
テトラの財務局は、今や「1ゴールドの誤差も許されない」という、天界の審判より厳しい地獄と化していることを。
4
学者が連行されていくのを見送り、俺は空を見上げた。
勇者が労働に目覚め、聖女が衛生を説き、学者が帳簿を付ける。
俺の魔王領は、もはや「魔王の国」というより、「世俗の縮図」になりつつあった。
「……だめがみ。……これ以上、変な奴を呼び寄せるなよ。……俺の城、もう空き部屋が少ないんだからな」
俺の呟きに答えるように、空で一際明るい星が瞬いた。
それがアストレアの「観測」の輝きなのか、あるいはさらなる波乱の予兆なのか。
俺はそれを確かめる前に、眠気という名の現実に身を任せることにした。
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