第11話 漂着した「かつての希望」

 魔王領の朝は、潮騒とカモメの鳴き声で始まる。

 ……はずだった。


「陛下! 陛下ぁーっ! 緊急事態、緊急事態であります!」


 バタン、と景気良く扉が開き、バルガスが転がり込んでくる。

 もはやこの光景は、俺にとっての目覚まし時計(スヌーズ機能付き)のようなものだ。


「……バルガス。三日三晩寝ると言ったはずだ。今、俺が起きてからまだ、体感で五分しか経っていないんだが」

「三日どころか五日経っております! そして、それどころではない事態が港で起きておるのです!」


 バルガスのただならぬ様子に、俺は渋々ベッドから這い出した。


 1

 港へ続く坂道を下ると、そこには異様な光景が広がっていた。


 ボロボロに裂けた帆、浸水して傾いた船体。

 そこから這い出してきたのは、薄汚れた布を纏い、飢えと疲労で虚脱状態にある数十人の人間たちだった。


「……難民、か」


 俺は眉をひそめた。

 人間領は今、神の祝福が途絶え、腐敗した貴族たちによる内乱の真っ最中だと聞いている。だが、まさかこんな世界の果てにある魔王領まで逃げてくるとは。


「陛下、いかがいたしましょう。人間をこのまま上陸させるのは、魔族たちの反発を招きます。いっそ海へ押し戻しては……」

「馬鹿を言え。そんなことをしたら、それこそ上空の観客()たちが『悲劇だわ!』とか言って、余計な奇跡をぶち込んでくるぞ」


 俺はため息をつき、群衆の先頭に目をやった。

 そこには、一際異彩を放つ一団がいた。


 鎧は錆びつき、剣は刃こぼれしている。

 だが、その立ち居振る舞いには、かつて数多の魔物を屠ってきた者だけが持つ、独特の「殺気」がわずかに残っていた。


 2

「……あんたが、この島の長か?」


 一団の中から、一人の男が前に出た。

 かつては「金糸」と呼ばれたであろう、泥に汚れた金髪。力なく垂れた肩。

 だが、その瞳には見覚えがある。


(……おいおい。冗談だろ)


 俺は心の中で、前世の記憶を総動員して検索をかける。

 数年前、魔王軍を壊滅させ、平和をもたらしたとされる伝説の英雄。

 神に愛され、最強の祝福を授かっていたはずの男。


「……勇者、アルスか?」


 俺がその名を呼ぶと、男は自嘲気味に口角を上げた。


「……今の俺は、ただのアルスだ。神に見捨てられ、国を追われ、仲間を食わせる場所も探せない……ただの、無職の男だよ」


 その背後には、同じくボロボロになった聖女や賢者らしき姿もあった。

 かつての「希望の象徴」は、今や行き場を失った「粗大ゴミ」として、魔王の足元に転がっていた。


 3

『あらぁ。……見て、アストレア。あの勇者、あんなに惨めになっちゃって』


 上空から、ノルンの忍び笑いが聞こえた気がした。

 今、この港を包んでいるのは、女神たちの「期待」という名の冷たい視線だ。

「宿敵同士の再会! さあ、どう料理するの、魔王様?」という悪趣味なサブタイトルが透けて見える。


「……バルガス。炊き出しの準備を。それから、空いている倉庫を一時的な居住区として開放しろ」

「な、人間を……それも勇者を招き入れるのですか!?」

「『招く』んじゃない。『収容』するんだ。……あいつらを野放しにして、この島でテロでも起こされたら、俺の隠居がさらに百年遠のく」


 俺はアルスの前に立ち、無機質な声をかけた。


「元勇者。この島には、神の祝福なんて一粒もない。あるのは、働いた分だけ食えるという『現実』だけだ。それでもいいなら、降りろ」


 アルスは驚いたように目を見開いた後、力なく、だが確かに頷いた。


 魔王領に、最大の「不安定要素」が上陸した。

 俺の静かな余生への挑戦状は、どうやらここからが本番らしい。


「……。……これ、絶対にお前らの仕込みだろ」


 俺の小さな毒づきは、潮風にかき消された。

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