第11話
吐きそうだ。
家に帰ってから、制服を着替えようともしないでベッドに蹲る。
靴下のままの足が、シーツの上で頼りなく沈む。
喉の奥がひりつく。
何かがこみ上げてくるのに、それが何なのか分からない。
気持ち悪いのは体じゃない。
分かっているのに、どうしようもない。
部屋のカーテンは閉めたまま。
外の光は遮られて、薄暗い空間に自分の呼吸音だけが残る。
闇の中、答えを探して逡巡するがどこまでいっても虚無だった。
考えれば考えるほど、同じところを回る。あの時の言葉、あの時の顔、あの時の沈黙。
繰り返し、繰り返し、頭の中で再生される。
この結末は、わたしの子供じみた精神と、素直になれない歪んだ心根が起こした結果だ。
分かっている。全部、自分が悪い。
大人ぶっていても大人になんてなれていない。
ただひたすらに、前だけを向いていればよかったのだ。
余計なことを考えずに。
余計な感情に振り回されずに。
あの頃みたいに。
ちり、と頭の奥底に沈んでいた光景が浮かぶ。
まだ背丈も低くて、手を伸ばせば簡単に届いた距離。
当たり前みたいに隣にいた存在。
……あの子の手を引いて歩く、わたしの姿。
転ばないように、離れないように。
ぎゅっと掴んでいた、小さな手。
あの時は、それがずっと続くものだと思っていた。
ベッド横のサイドテーブルに飾られた、黒猫のぬいぐるみがこちらを覗いている気がした。
丸いガラスの目。
何も言わないくせに、全部見透かされているようで。
視線を逸らすこともできず、ただ見つめ返す。
──そうだ。
胸の奥で、小さく何かが弾けた
少しだけ視界が広がる。
スマホを手に取る。
画面は暗いまま。
指先が震えているのが分かる。
止まったままのわたし達の関係。
動かそうとしなかったのは、どちらだったのか。
……違う。
きっとあの子は変わろうとしていた。
わたしが、目を逸らしていただけだ
連絡帳の、長らく使うことのなかった名前を見つける。
きっと拒絶したのはわたしだ。
変わってしまったあの子を直視できなくて。
変わっていく関係を受け入れられなくて。
逃げていた。
ずっと。
電話をかける。
画面に表示された「発信中」の文字。
耳に当てる。
呼び出し音が、やけに長く感じる。
……出なかったら、どうしようか。
その瞬間、怖くなる。
このまま何も変わらないまま終わる可能性が、急に現実味を帯びる。
それを振り払うように、ぎゅっとスマホを握りしめる。
発信ボタンを押したのは自分だ。なら、最後まで聞くしかない。
数コールの後。
「……はい」
少しだけ、間があった。
「……ねえ、七森」
一拍、息を吸って、名前を呼ぶ。
それだけで、喉が引きつる。
頭の中に、葉月の声がよぎる。
『ただ。一人しかいない幼馴染なんだし、ギクシャクしたまんまっていうのも、もったいないっしょ?』
軽い言い方なのに、不思議と残っていた言葉。
そうだ。
もったいない。
こんな終わり方なんて。
「──星を、見に行きましょう」
***
近所から少し離れた、高台のある公園。
小ぢんまりとした街灯が、必要最低限の光源となり公園を怪しく照らす。
オレンジ色の光が、地面に淡く広がっている。
小学生の頃、高台から見える風景を絵に描く授業を思い出した。あの時は昼だったから、随分と印象が違って見える。
誰もいない高台は広々としていて、世界に自分しかいないと錯覚させる。
……まあ、一人ではないのだけれど。
神妙な顔をした七森。
怒られる前の子供みたいで、ちょっとおかしい。
そんなことを思ってしまうくらいには、少しだけ余裕が戻っていた。
「ねえ、七森」
「何かな?」
話しかければ反応も返ってくる。
普通に話せていることがほんの少しだけ安心した。
だからこそ、夏祭りのことを思い出した。
いや、おそらくここが、わたし達の関係の均衡が崩れた始点。
「──どうして藤原先輩と付き合ったの?」
口に出してから、少しだけ後悔する。
でも、聞かずにはいられなかった。
昔のことだし、あまり気にしてはいなかったはずなのに。
あの頃は思春期みたいな思考が邪魔をして、七森を目の敵にしていた。それをいまだに少し引きずっているだけ。
しかし、きっとここに答えがありそうだと思ったのだ。
七森の反応を待つ。
「何となく、かな」
あまりにもあっさりとした答え。
「……そう」
そんな軽いものじゃ、ないはずなのに。
本心かは分からない。
他者の本心なんて、知りようもない。
何と言って欲しかったのだろう。
落胆は、していない。
そう簡単に、納得できる答えが出るとは思っていなかったから。
無言のまま、二人で公園の中を歩く。
背もたれのない木製のベンチを見つけたので、少しだけ間を空けて腰を下ろした。
空を見上げて、星に手を伸ばす。
キラキラとした星空のカーテン。
遠くて、届かないのに、なぜか掴めそうな気がする。
広大な星天に落ちていく感覚は、宙に浮いたように体を軽くさせた。
「何で急に星なんか……」
「何となく?」
同じ言葉で返した。
どこかおかしくて頬が緩む。
昔より遠い距離。
手を伸ばせば届くのに、ずっと遠くに感じる。
……それは、少し嫌だ。
「昔からなにかと勝負ばかりしてたわ」
「そう、だね」
……あの頃みたいに、くだらないことでいい。
「でね、ずっと負けっぱなしなのは性に合わないから、わたし、あなたに勝てる勝負を思い付いたの」
「……何それ?」
意味が分からないって表情。
昔みたいな、どうでもいい勝負。
「"無反応ゲーム"なんてどう?」
「……無反応ゲーム?」
交互に相手が反応しそうな言葉を言い合って、それに反応したら負け。
単純で、くだらなくて。
でも、今のわたし達にはちょうどいい。
「久しぶりに、こんなくだらないゲームもいいでしょ?」
「まあ、いいけど」
お互いに顔を向け合う。
星の光が整った顔立ちをほのかに照らす。いつかのようなわたしを嘲るような意地の悪い笑みじゃない。
必死に無表情を形作っている。
「じゃあ、さっそくわたしから」
絶対とは言わないけど、おそらく勝てる。
七森は無意識なのでしょうけど、わたしは気付いていた。
ちゃんと見ていれば、分かるはず。
あなたが、何に反応するのか。
無表情を装う、本気で勝ちに行く七森の目を、しっかりと見つめて。
逃げないように。
逸らさないように。
あの頃のように。
懐かしい日々を思い出して。
「──"鈴蘭"」
一言だけ。
彼女の名前を、呼んだ。
「────」
風が、そよぐ。
七森の、いや鈴蘭の目が揺れる。
それだけ。
それだけなのに。
「……はい、反応した」
「……してないよ」
目を逸らして否定する。
分かりやすい。
「したわ」
「…………」
嬉しいとか、気が晴れたとかよりも、安堵の方が大きかった。
「……ずるい」
「そうかも」
かつて、わたし達は名前で呼び合っていた。
鈴蘭が変わったのをきっかけに、わたしは七森と呼ぶようになった。
思い出したのだ。
初めて"七森"と口にした時、鈴蘭は苦虫を噛み潰したような表情をしていたから。
あの時の顔は、今思えば。
──傷ついた顔だったのかもしれない。
それを忘れて、七森と呼ぶのが普通になっていた。
「でも、わたしの勝ちよ」
「そう、だね……」
「だから"お願い"。さっきの話、聞かせて」
責めるわけでなく、咎めるわけでもない。
ただ懇願する。
わたしが聞きたいから。
水中に沈んでしまって、空気を求めるように。
少しの沈黙。
木の葉が揺れた。
「……あの、ね」
「うん」
一瞬の、躊躇いの間。
「とられたく、なかったの」
風が止む。
音が消える。
すとん、と。
心に空いていた穴が埋まったような感覚。
……そうか。
そういうことか。
わたしも、そうだったんだ。
「陽菜ちゃん、ごめんなさい……」
完璧で、完成された隙のない微笑みなんて見る影もない。
そこにいたのは、迷子の子供のように、すがるような目をした鈴蘭だけだった。
「陽菜ちゃんの恋を奪って、ごめんなさい」
「……恋?」
一瞬、言葉の意味を測りかねる。
「そっか」
小さく、息を吐く。
「鈴蘭は本気じゃなかったのね」
「……うん」
わたしを、先輩に奪われたくなかった。
いや、奪われたくなかったわけじゃない。
ただ、離れたくなかっただけ。
それだけの話。
物事の回答なんて、存外安直なものだ。
遠回りしていた感情が、ようやく一つにまとまる。
つまり、鈴蘭はわたしのそばにいたかっただけ。
「わたしも、ごめんなさい」
「えっ、なんで……」
潤んだ瞳が見開かれる。
「だってわたし、先輩と付き合ってたわけじゃないもの」
だと言うのに、勝手に負けた気になって、勝手に傷ついて。そのくせ、鈴蘭を邪険に扱った。
葉月の言う通りだ。
たった一人の幼馴染とこんなことで険悪になるなんて。
だからもう。
鈴蘭との距離を詰める。
肩と肩がくっつくくらいに。
二つの影が溶けて、一つになる。
鈴蘭は肩を震わせて固まる。
温かさに思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ」
「は、陽菜ちゃ──」
離れないように、離さないように鈴蘭の手を握る。
手と手を合わせ、指先を絡め合って見つめ合う。
ぶわっ、と。
頬が花のように染まる。
指先に熱が伝わる。
「わたし達、似てるのね」
「似てる?」
赤くなったまま、軽く首を傾ける。
本当に気づいていないのか。
「わたしも、あなたを盗られたくなかったみたい」
自分の知らなかった感情に、困ったように笑う。
「あなたが誰かと笑うのが嫌だった。
あなたが誰かと触れ合うのが嫌だった。
あなたが、誰かと勝負するのが嫌だったの」
言葉にして、ようやく分かる。
自分がどれだけ子供じみていたのか。
鈴蘭の苦しみが。痛みが。
「ねえ、鈴蘭」
呼びかける。その名前を、ちゃんと選んで。
絡めた指先に、少しだけ力を込める。
「あなたがわたしに抱いている感情と、わたしがあなたに抱いている感情が同じものなのか、まだ自信がないの」
星の光を反射する鈴蘭の瞳が、わずかに揺れる。
誤魔化さない。曖昧なままにしない。
わたしの今の精一杯の本心。
「でも」
息を吸う。
こつん、と。
額を、鈴蘭の額に押し付けて。
伝えたいから。
「少なくとも──」
視線を、逸らさない。
「あなたを誰にも渡したくないって思う気持ちは、本物よ。──だから、わたしの隣にいて」
静寂。
遅れて、風が戻ってくる。
鈴蘭は何も言わない。
ただ、一筋。
潤んだ瞳から、涙が流れた。
流れる星のようで、綺麗だと思ってしまった。
「全く、なに泣いてるのよ」
「だって、陽菜ちゃん、変わらないなって。……でも」
震える唇で続ける。
「やっぱり、ちょっと不安。……私の独りよがりかもしれないって思うと」
「なら、確かめましょう」
「……確かめる?どうやって?」
鈴蘭の声に、少しだけ怯えが混じる。
「簡単よ」
安心させるように、ほんの少しだけ、笑う。
「もう一回、勝負しましょう」
「……無反応ゲーム?」
「ええ」
頷く。
「次はね、ちゃんと言葉にしてみるわ」
だから、聞いてて。
言葉にすれば、きっと分かるから。
夜が、やけに静かになる。
一瞬だけ、息を吸う。
もう躊躇わない。
「──好き」
間を置かずに、もう一度。
今度は、はっきりと。
「好きよ、鈴蘭」
「……っ」
息を呑む音。
次の瞬間、顔を覆う。
「…………むり」
消え入りそうな声。
「そんなの……反応しないとか、無理に決まってる……」
肩が震えている。
でも、逃げていない。
「……負けた」
観念したみたいに、手を下ろす。
頬を赤く染めて、不器用に笑う。
潤んだ目で、まっすぐに見つめていた。
「私も、好き」
とくん、と。
心臓が跳ねる。
その一言だけで、十分だった。
***
指を絡めたまま、離さない。
「帰ろっか」
「……うん」
星空の下を並んで歩き出す。
同じ歩幅で、ゆっくりと。
触れた手の温度が、やけに鮮明だった。
ぎこちなくて、不完全で。
それでも。
確かに前に進んだ“好き”。
並んで歩き出す。
繋いだ手は、そのまま。
星は、変わらず瞬いているのに。
見える景色だけが、少しだけ変わっていた。
また私の勝ちだね、と幼馴染は囁く 蓮実 @lotus0302
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