第10話
夏休みの間、七森と話すことはなかった。
お互いに連絡を取ることもなく、震えることのないスマホと黒猫のぬいぐるみを眺めるだけ。
画面を何度開いても、新着の通知はない。
こちらから送る気にもなれず、ただ指先だけが、意味もなくスクロールを繰り返す。
別に、連絡を待っているわけじゃない。
そう思いながらも、指は無意識にメッセージアプリを開いてしまう。
開いて、閉じる。
その繰り返し。
黒猫のぬいぐるみは、あの日のまま。あの夜と同じように、首元の小さな鈴が静かに光を反射している。
ベッド横のサイドテーブルの上に置いたまま、少しだけ位置がずれている。
手に取れば、あのときの感触が蘇る気がして、触れられない。
「……ほんと、最悪」
小さく吐き捨てる。
気まずさの中に、焦燥感と空虚感が渦巻く。
何も起きていないはずなのに、何かが変わってしまったような感覚。
引っかかっているのに、それがどんな感情なのか分からない。分かろうとするほど、形を失っていた。
元に戻る方法すら分からないまま、時間だけが過ぎていく。
学校で顔を合わせることはあっても、目が合えばどちらかが目を逸らす。
廊下ですれ違うとき。
教室の扉越しに見かけたとき。
一瞬だけ交わる視線は、すぐに切れる。
まるで、触れてはいけないものみたいに。
たまに葉月が間に入って、気まずい空気を笑い飛ばすくらい。
そして気付けば、体育祭の季節になっていた。
蝉の声は少しだけ遠のき、代わりにグラウンドには掛け声が響くようになる。
夏の終わりと、行事の始まりが重なる時期。
***
体育祭のこの時期は、自然とクラス練習が多く行われる。
それぞれの出場競技ごとに生徒達は各々練習に勤しむ。
グラウンドには白線が引かれ、各競技のための区画が整えられている。
砂の上を踏みしめる音。
笛の合図。
誰かの笑い声と、誰かの息切れ。
空は高く、雲は薄い。
夏の名残を残した日差しが、肌をじりじりと焼く。
体操着の下に黒のインナーを着なくていいのは、少しだけ開放感がある。
首元にまとわりつく不快感がないだけで、ずいぶん楽だった。
それでも、どこか肌に直接触れる空気はほんの少しだけ冷たかった。
少し離れた所で、七森も他のクラスメイトの子と練習している。
出場するのは、二人三脚。
確か、相手の子は陸上部の柳田さん。
身長も同じくらいで、七森は陸上部に引けを取らないくらい足も速い。
……ペアとしてふさわしい組み合わせだ。
息も合っているように見える。
軽く言葉を交わしながら、自然に距離を詰めていく。
横並びになって、隣り合う足首を紐で結んでいる。
しゃがみ込んで、結び目を確かめる仕草。
互いの肩に軽く手を添えて、立ち上がる動き。
無意識のうちに息を深く吸う。
気にする必要なんてない。関係ないのだから。
二人三脚ならば当然の行為だ。
そう言い聞かせるように、もう一度視線を逸らそうとする。
分かっているのに。
「陽菜?」
葉月の声に、自覚のない小さな波紋が霧散する。
握った拳から力が抜ける。
「どうかした?」
「それ、こっちの台詞なんだけど。なんかぼーっとしてるし」
「……気のせいよ」
そう言って、もう一度七森へと視線を向ける。
七森は笑っている。クラスの子と。
自然に。何もなかったみたいに。
……笑っているだけなのに、面白くない。
わたしに対してあんなことをしておいて、七森は全てが白昼夢だったかのように笑う。
その笑顔が、やけに遠く感じる。
わたしに対してあんなことをしておいて。
あんな距離まで踏み込んでおいて。
「鈴蘭ちゃん見るのもいいけど、わたしらも練習しようよ〜」
「ええ、ごめんなさい」
「えっ、う、うん」
少しだけ驚いたような葉月の声。
自分でも、どこか上の空だったのが分かる。
体を動かせば、この胸の詰まりも治るだろうか。
そんな淡い期待を抱きながら、足を踏み出した。
***
「七森さん、足速いね!」
快活な声がグラウンドに響く。
七森はリレーにも出場するようで、バトンの受け渡し練習をしている。
「そうかな?」
「そうだよ!陸上部のあたしの面目が立たないって」
そう言うが、柳田さんは気にしていないように笑う。
その表情に嫌味はなく、本心から楽しんでいるように見えた。
……わたしだって、七森と遜色ないくらいには走れる。
そう思うのに、足は動かない。
リレー自体はわたしも出る。だが区画が異なる。
練習相手は別の種目の練習中なので、一人休憩だ。
タオルで首元の汗を軽く拭う。
つい、木陰から練習風景を視界に映す。
日差しを避けた影の中。
そこから見えるのは、陽の下にいる七森。
バトンが渡される瞬間。
手と手が重なる一瞬。
それを見ているだけで、妙に息が詰まる。
「絶対陸上部入ったほうがいいよ!そうじゃなくても次の大会出て欲しいな!」
「部活は今から入るのは気まずいかな。大会もやる気がないのに出るのは申し訳ないし」
「えー!もったいないなぁ……」
「ごめんね」
軽く頭を下げる七森。
柔らかく断るその態度。
「あ!じゃあさ、入部はともかく、あたしと勝負して負けたら大会出てよ!」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
息が、少し止まった。
血が沸々と熱くなる。
「うーん……」
七森が少しだけ首を傾げる。
その間が、やけに長く感じる。
視線を外す。
別に、誰と勝負しようと自由だ。
そう思っているはずなのに、胸のざらつきが治らない。
指先がじん、と熱を帯びる。
喉の奥に、何かが引っかかる。
「いいよね!負けたら大会出るってことで決まりね!」
「え、それは、ちょっと──」
その言葉が、やけに軽く聞こえて。
その軽さが、無性に腹立たしくて。
わたしの中で何かが弾けた。
「──やめなさいよ」
気付けば、口から零れていた。
わたしの口から、一段低く落ちた声が漏れた。
思ったよりはっきりと響く。
「……え?」
柳田さんが目を丸くする。
周囲の空気が、一瞬止まる。
七森は何も言わずに、こちらを見つめていた。
困惑か怯えのこもった瞳。
読み取れない感情が、その瞳に揺れている。
「……そういうの、軽く言うことじゃないでしょ。ちゃんとやってる人に失礼よ」
自分でも驚くくらい、言葉は冷たく整っていた。
けれどその奥にある感情は、ぐちゃぐちゃで。
何に対して怒っているのか、自分でも分からない。
急に刺しこまれた鋭い声に、周囲が沈黙する。
自分でも抑えきれないくらいの鋭さ。
わたしの剣幕にただならぬものを感じたのか、柳田さんが慌てて言葉を重ねる。
「あー、うん。そうだよね。ごめんね七森さん?」
「ううん、大丈夫だよ」
困惑しているが、いつも通りの柔らかな表情。
変わらない。何も変わらない。
……どうして、わたしだけ。
あんなことをわたしにしておいて。
あんな感情をわたしに植え付けさせて。
あんな風にわたしを置いて行こうとする。
七森の顔を見る。
何も変わらない。
それが余計に
「…………誰でもいいわけ……?」
喉の奥から、勝手に言葉が漏れる。
あの時と同じ顔で。あの時と同じ距離で。
呟いて。
静かに溢れ出た言葉に、言ってしまってから気づく。
何を言っているんだろう。
こんなものは、ただの八つ当たりだ。
知らない感情をぶつける先が分からなくて、当たり散らしているだけ。
……最低だ。
最低なのに、喉を引き裂くように紡がれた。
止められなかった。
……違う。
こんなの、違う。
こんなことで怒る理由なんて、ないのに。
なのに、どうして。
胸の奥が熱くて、苦しくて。
呼吸が浅くなる。
もう、誰の顔も見れなかった。
俯いて、逃げるようにその場を離れた。
背中に、何か視線が突き刺さる気がしたけれど。
振り返ることは、できなかった。
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